中学校に入り、うちにもテレビが入って、野球も見られるようになったのであるが、柔道部に引っ張られ、ここでの練習が厳しく、それまでのように野球に熱中することもなくなっていったが、長嶋に対する期待、想いが滅することもなかった。以前ほど強いものではないが、教祖と信者の関係に変わりはなかった。そしてあの人の登場。一本足打法の開眼、王貞治である。
ここで、王と長嶋の成績を比較するようなことはしない。それはあまりにも歴然としている。
結論を先に云っておく。つまり私が長嶋に期待したもの、見たかったものを現実のものとしたのは、王であり、落合であり、イチローであったということなのだ。
しかしながらである。この時点で、私にとって、教祖はあくまで長嶋。信者として、それ以外のものを、どうして教祖以上の存在として認めることが出来ようか。無理だ。苦行は続く。
では、私はどうやって、この縛りを解くことができたのか。その話をしなければいけない。
それは意外にあっけないものであった。