中南勢音頭通信  1987  昭和62 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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三月も今日で終わり。早いものだ。もう今年も四分の一が過ぎてしまった。十日もすれば田植えが始まる。サミットに向けた練習もせねばならないし、肝心の女帝様が故障してしまったし。いやはや。が、ぼやいていても仕方がない。前へ進もう。

今年に入って自分のことを離れていた。背景については十分に理解していただけたと思う。自分に戻る。

さて、話は1986年、昭和61年まで進んできている。南勢地区への進出をもくろんで、出口氏へのコンタクトはとってはいたが、なかなかお呼びはかからなかった。ようやく念願がかなったのは、翌62年のことであった。吉田氏が引退されたのである。そして笠原氏とのコンビもこの年が最後であった。「なんか、弱ったなあ」と、思っていたら、脳梗塞発症。翌々'90年、平成2年、没  享年78

かねて申し上げたように、私には三人の師と、三人の親方がいた。、三人の親方とはまず、笠原氏。この人が倒れた後、二人の親方を持つことになる。

同時期に退かれた吉田氏には二人の相方がいた。出口氏と大泉氏である。南勢地区に君臨しておられた出口氏であったが、もちろん吉田氏にも地盤はあった。ここに大泉氏は招かれていた。吉田氏リタイアで大泉氏が引き継ぎ、私を引っ張ってくれたのである。もちろん、もう一人は、出口氏。同じ年、新しい親方を二人同時に持つこととなった。ただ、大泉氏とのコンビは長くは続かなかった。笠原氏より二歳年上の高齢であり、また一気に、町内による踊りがその数を減らした時期でもあった。斎宮の中町、牛場。櫛田の伊賀町、山添、等々。

そして三人の師とは。

一人目は田中芳松氏。「かわさき」を伝授していただいた。

二人目は山川正治氏。レコード、テープで「しょんがい」を学ばさせていただいた。

そして、三人目がこれから紹介する、道風茂/酒井子雲氏である。