中南勢音頭通信  ジグソーパズル6 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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中南勢地域における音頭・踊りの紹介をベースに
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今月に入ってからの記事で、現在、我々が引き継いできた「しょんがい音頭」の概要が、どうやら示せたかな、と自負できるところまで来られたような気がしている。

さて現状はといえば。

一度「松阪しょんがい音頭と踊り保存会」の練習風景をのぞきに来てほしい。「音頭」は「踊り」のためのものであること、すさまじいばかりの「かかあ天下」であることを実感していただけるとおもう。(月例会・第24土曜日 橋西公民館にて)

この現状は肯定されなければいけない。今、聞くための音頭が求められる時代ではない。この文化が滅亡することなく、今日、命を永らえていられるのは、真に彼女たちのおかげなのだ。その帰結として、田中芳松氏や笠原氏のようなイケイケどんどん・のってけ、のってけ調(これを「ずんとやり」と呼ぶ)の音頭が好まれることになるのである。


「踊らせる音頭、取らな損やな」


この、大泉氏のつぶやきは、真にこの事情をものがたっている。少々、申し訳ない気もするが、あえて述べておく。氏の音頭には少し間の甘いところがあり、これが時々顔をだすことがあった。氏の言葉、「やり始めの頃は、踊り、よう、みじゃいたってのう」。

微塵(みじ)やく」とは相当の破壊力である。

この地方の音頭には伴奏はない。すべては、音頭と踊りの呼吸合わせである。これがどうしてもうまくやれない人がいる。「保存会」にもいる。踊りにあわない音頭をとるのであるからありがたいわけがない。この能力向上には、医学的に見て、どんな努力も受け付けない、と聞いた。つまり、一生よくはならないのである。このタイプの人は音頭でなく、カラオケを楽しんでほしい。カラオケなら、伴奏が連れて行ってくれる。

程度こそ軽かったが、そんな傾向のある大泉氏が、やはり、音頭史上に名を残す音頭とりであり、南勢音頭協会会長を務めた人であったのは、人格、人柄だけでなく、やはり、音頭が「聴くためのもの」であった時代の人だったからである。アレンジ力があり、創作力もある。つまり、歌い手である以上に作家であった。

しかしながら、時代はより強く、より大きく「踊るための音頭」を要求するようになっていた。踊り手上位の時代が来ていたのである。