それでは、田中芳松氏の場合は。
かねて申し上げているように、北西部の人である。主たる踊りは「かわさき」の地域である。評判を聞きつけ西黒部へ遊びに来たのは氏、三十五歳の時であったという。つまり、(浪花節的)しょんがい音頭のスタートの時期は出口氏とかわらないのである。そう、すでに(しょんがい)音頭に取り上げるようなめぼしいネタはほとんど残っていなかった。それでも音頭に対する情熱は誰よりも熱いものがあり、数点のネタはもっていた。ノートに書き留めたものを拝見した記憶がある、「大石の遊興」、「村上喜剣」、「小政の少年時代」などは弟子に教えられていたことはあるが、師、自ら演られたのは、あまり聴いたことがない。唯一、「宝の入船」だけは何度も耳にした。が、これもやはり音頭仲間からの評判は芳しいものではなかった。「何度聞いても、さっぱり訳が分からん」と、面と向かって言う人もいたぐらいである。実は、私も同じ印象を受けていた。大泉氏によれば「役者(登城人物)が多過ぎる」とのことであった。
私が初めてお会いした時、「これが初読みや」と、披露されたのが「築城音頭」という松阪開府の士、蒲生氏郷を唄ったものであり、さらに後年には三雲出身の探検家を唄った「松浦武四郎一代記」をレコーディングするなどしたが、いずれも記録、資料の羅列、陳列的な作品であり、第一,二世代の、いわゆる、浪花節時代の音頭とりたちがほめる様なものにはならなかった。
彼らにとっては「しょんがい音頭」は「踊るためのもの」である前に「聴かせるためのもの」であったのである。