中南勢音頭通信  ジグソーパズル4 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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事情は違うが、出口氏にも似たところがあった。

生まれ年だけみても、道風国造氏から50年、稲葉孝佑(嘉四郎)氏から32年、後の人である。この人がこの芸に目覚めた時、手本はすでに十分にあった。わざわざ浪曲に取りくむ必要はなかった。処処、方々の音頭に接し、稲葉さんにあこがれ、稲葉さんのように、唄い始めた。16歳で駆け出した、その時点で、みんなの注目を集めるほどうまかったという。(浦田 談)

上手いのは良い、が、上手すぎると、何かと風当たりが強くなる。第1,2世代にとってタブーであった入り口から入り、のし上がっていく若者を苦々しい思いで見る同業者は多かったに違いない。人の面前で激しくののしられたこともあったという。「お前のやっとんのは、音頭やない!」。私は、出口氏の口から同業者に対する肯定的な言葉を聞いたことはないのである。

「稲葉さんが手本であった」ということと、「山川さんには憧れた」との二点をのぞいて。

そう、稲葉氏が確立したスタイルこそ、すべての人が手本にし、圧倒的な影響力を持ち、基本的な、そして伝統的となる「しょんがい音頭」であって、その殻を打ち破り、新しい世界に飛び出した人こそ山川正治という人であった。いくら上手であっても、あくまで「稲葉流」の門下の人であった出口氏にとっては、「山川流」を創設した、山川正治という人は尊敬すべき人であったに違いはない。