お分かりいただけると思う。こういうことなのだ。第一、第二の世代の音頭師にとっては音頭の手本となるのは、あくまで、浪曲/浪花節であり、そうでなくてはならなかったのである。
今、松阪には「保存会」を中心として10数名の音頭取りがいる。明和町、多気町にも数名づつの音頭取りが活動している。彼らの音頭の多くは(特に松阪では)先輩諸氏の写しであり、歌としての扱いなのである。この作業は録音機が普及した今の時代、いともたやすい芸当であり、さほど抵抗のある行為とも思われないが、テープレコーダーの出初めには、録られることを、極端に嫌った人もいたのである。自分の芸が盗られるからと。それだけの努力も苦労もしたであろう。それなのに聴いて覚えた人がそっくりそのまま、それも本人より上手にやってしまっては、これは礼を失した行為とみなされることになる。
踊りのすんだ後、座敷に上がってもてなしを受けるとき、決まって始まるのが芸談議である。笠原氏はこれが嫌だった。氏は読み書きができなかった。それでは創作もアレンジもかなわない。高須で初めて会った時、一方的に、かつ、場を独占するように、私に話しかけてきたのは、かような理由があったのだ。
事情は少し違うが、出口氏にも似たことがあった。