中南勢音頭通信 笠原乙松   2 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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中南勢地域における音頭・踊りの紹介をベースに
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さっそくに、訪ねてみた。老夫婦二人の居住する離れは、かご職人の仕事場であった。冬場にはストーブがすえられた。仕事柄、焚き物はいくらでもあった。それを目当てに訪れる人も少なくなかった。このようなる条件が、副業としての仲人業を成立させていた。仲人。とにかくあちこち歩き回らなくてはいけない。その移動手段として私を利用したかった。つまり我々はお互いが必要としていたのである。

 

さまざまな話を聞くことができた。そのうちの一つ、若いころ、夏になると、櫛田のほうへ仕事に出かけた。世話になる家の納屋に泊まり込み、近隣の仕事の注文を取るのである。箕やかためと呼ばれる竹籠などを作る。「朝、一番に、山へ出かけ、カラスが止まって、カア、と、鳴いとるやつを切り倒して、仕事場に運び、その日のうちに仕上げて納めるんや。注文、全部かたずけると、世話になった家にお礼して引き上げるというわけや」(本人談)。本当にこういう仕事の形態があったのである。

 

この話を聞いてピンときた。かわさきを伝えた、畳職人も、この形の仕事師であったのだ。

 

このコンビは、親方が倒れるまでの7年間続くのである。

 

演題としては、色物,人情物が好きであった。これらにもそれぞれの性格が出るもので、大泉氏は軍人もの、美談ものを好んで演られたが、この人は艶っぽいものを好んだ。ここに紹介する二席は、この人の代表的な演目である。

 

 

 


  紺屋高尾、   玉菊灯篭

 

 

 

 

そして、あくる1981年、それまで、二~三か所しかなかった出番も、一気に十ケ所程度に増え、「千代の富士」は間に合ったのである。