中南勢音頭通信  笠原乙松  1 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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1981年の「千代の富士」の成功で、名実ともに一丁前の音頭取りの仲間入りを果たした自分であったが、実は、その一年前に、重要な出会いがあった。

前年のこと、地元の踊りの舞台に、久しぶりの、一人の音頭取りの姿があった。笠原乙松19131990 東黒部町)。通称、かごやさん。竹細工職人で、片足が不自由な人であった。人間というものは、やはり、人さまざまであって、人好きなのもいれば、人嫌いもいる。わたしはというと、決して人嫌いというわけではないと思っているし、人付き合いが苦手というわけでもないと思っている。しかしながら、極端に、その距離を縮めることには、けっこう臆病なほうである。必要にして、十分な距離を取っていたい人なのである(これが、女性を苦手とした最大の理由)。

 

この、かごやさんという人は、この距離を縮めることに極めて熱心な人であった(相手が誰であれ。そう、誰であれ)。この当時、踊りが終わると座敷に上がってもてなしを受けるのであるが、この時の音頭連中の話題というのは、芸談議(それも昔の話が多かった)に花を咲かせるのがふつうであったが、この人は、この時 初対面の私に対して、一方的に、かつ、独占的に、話しかけてきた。

その内容は、要約すれば、「音頭をやりたければ、出番が欲しければ、俺んとこへ来い。」であった。ほかの人たちは黙って聞いていた。「また、始まったか」という感じで。しかしながら、なかなか、しょんがいがものにならない、この時の自分にとって、これは、渡りに舟であった。

こういう人であったから、お客さんは多かった。この人を親方とすることで、結果的に、多くの出番を持つことになるのである。