さて、「千代の富士」は成功した、が、である。お分かりいただけると思う。これは際物。熱のある間は良いのであるが、 ・・・・・・ なのだ。 二年間は演った。三年目になると、もういけない。第一、自分が嫌になってくる。十年、二十年、飽きずにやるためには、やはり、昔のものがよいのだ。何かものにしなくては。河内音頭の「幡随院長兵衛」をアレンジしてみた。親方からは「鼠小僧」を頂戴した。それに「吉原百人切り」。この三席の持ちネタでしばらくは歩くことになる。まくらは適宜作った。それに、かわさきになれば、これはほとんど自分の受け持ちであった。忘れることもない。四時間弱の踊りを、二人でやりきったことがある。声は枯れることを知らなかった。まだまだ踊りをやるところも多く、頼まれていないところを訪ねたりして、飛び入りでやったり、テープにとったりした。自分の音頭人生で一番楽しい時期であった。
で、しばらくは、この時期を紹介してみようと思う。
まずは、二年目の「千代の富士」のさわりを。やはり二年目、口に慣れている。
かわさきを。「おかげ」(かわさきの巻 田中芳松 参照のこと)と後ほど紹介する「乗合」を。
「おかげ」については、田中氏のテープの欠落していた部分を補っていただけるはずである。