では今、我々の演っている河崎音頭とは何なのか。それについては、森本太郎氏にうかがった話を紹介する、と、
いまの松阪市阿坂町に、毎年のように、夏になると、伊勢のほうから(当時は山田)河崎音頭の心得のある、畳職人が仕事にやってきていた。この人が、この地に、河崎音頭を植え付けていったというのであるが、もちろん三味などはない。なくても歌えるようなアレンジを施した。また習ったほうもそれなりの工夫をした。河崎音頭はかわさき音頭となり、拡散していった。(私の知る限りでは、北限は香良洲である。)
それ故にこそ、この地域(これからは、北西部地域と呼ぶ)では、伝統的に、かわさきが主流となって行くのである。で、その時期であるが、残念ながら聞きそびれてしまった。が、そんなに古い話ではないと思える。少なくとも、参宮鉄道の、開通後のことではあろう。
さて、この地域に根付いたかわさきであるが、他の地域(南東部地域と呼ぶ)にも此の音頭にぞっこん惚れ込んだ人がいた。しょんがいの父と呼ばれる西黒部の 道風国造(1883~1955)である、彼がどのように、この音頭、踊りを導入したのか、いまとなっては知るすべはないが、導入後は、もっぱら、かわさきを専門的に受け持ち、演られたそうである。
わたしがブログのタイトルに採用している、中南勢全地域においても、この西黒部地区ほど、踊りの好きな、盛んなところはなかったはずである、八月三十日、三十一日の連続二夜、そして秋の取入れの後の豊年踊りの計三夜、それも徹夜踊りであったという。わたしがこの道に入って、一度だけこの徹夜踊りを経験したことがある(その後、徹夜踊りは行われていない)。
なんと、ちょうど十二時に切り替わったかわさきが、しょんがいに戻ったのは、まさに、ちょうど三時であった。三時間連続でのかわさき踊り、西黒部以外では、考えられないことではあった。音頭の心配はなかった。十二時を回るころには、他を済ませた松阪中の音頭とりたちがみんな集まってきていた。その中にひときわ光を放つ、音頭師がいた。田中芳松(1915~2013 旧三雲村・現松阪市)。私の師匠である。