中南勢音頭通信   自分の巻 1 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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中南勢地域における音頭・踊りの紹介をベースに
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1981年といえばブログ主33歳、正式に依頼を受けて音頭取ったのが27歳、飛び入りでの初登壇が25歳、何をしていたのか。ブログの趣旨にしぼって、壱から話そう。以下自分の話。

生まれが現松阪市高須町、昭和23年1月生まれ。一農一漁(半農半漁より大きい)の比較的裕福な在所であったが、公共交通の便はなく移動手段は徒歩か自転車、娯楽といえば、

三月の神楽獅子、門付けを済ませた後、広場にむしろを敷いたうえでの演芸寄席があった。やはり人気は道化役のおやじ、

四月十日が氏神の祭り、神事(じんじといった)。夜、三本建ての映画上映があった。

そして八月二六日の会式。踊りの日である。映画と踊りは青年団が執り行うことになっていた。その踊りのにぎわっていたこと、屋台の周りを何重にも見物人が取り囲み、その外を何重もの踊りの輪ができ、その外をまた背丈のない子供には入ることものぞくこともできないというほどの人が取り囲むという状態であった。初めに踊りだすのは青年団のメンバー、つまり、嫁さんの検見の意味があった。だからもちろん、よそからのお客も多かった。テレビが普及するまでは本当によくにぎわったのである。ちなみに、わが家にテレビが入ってきたのは、中一になってから。昭和35年(1960年)であった.

それを見ていた当の自分であるが、正直まったく訳が分からなかった。テレビはなくともラジオはあった、ラジオから流れるプロの歌手とは似ても似つかぬ歌声に合わせて踊り続ける姿は到底理解不能の事柄であった。しかもその主役は若い娘さん、当時の私には何ら興味を持てる対象ではなかった。男子のやることではない。妙に男としてのプライドの高い男の子であった。

しかし、それが完全に覆る日が来るのである。中学1年であったと記憶する。友達と二人で会場にいた。前年ぐらいから気が付いてはいた。同級生の男子の踊る姿を見つけることがあった。その表情がいいのである。雑念がなく無心であることが読み取れた。認識を変えなくてはいけないか。友達と相談して、挑戦してみるか、となり、自分の中の全ての勇気を振り絞って輪の中へ、この時、友達と一緒でなければ間違いなく挫折、撤退であったろう。意のままにならぬ手と足であった。何度もあきらめかけた。その都度 再挑戦を繰り返すお互いの姿を確認し、なんとか かんとかで人の跡がつけるようになっていったのである。次第に体がリズムを受け入れ、刷り込まれ、なじまれ、思い通りの動きができるようになると、これは本当に面白い、となった。踊りにはまってしまったのである。

この当時は会式踊りであり、曜日ではなく日で決まっていたから 各地で毎日のように踊りはあったのである。それらの追っかけが始まった。中学、高校とそれは続いた。もちろん、夏休み中と一部の土曜日だけであるが。