この流れは昭和40年代に入って決定的なものとなるが、ここでちょっと地域差について述べておかなければならない。国造氏の開拓した浪花節(しょんがい)音頭であるが、これが支持され一気に広がりを見せたのは、主に櫛田川流域以南、以東の地域であった、宮川流域までと考えてよい。この地域の音頭取り衆が後に組合のようなものを結成したとき、その名称を「南勢音頭協会」としたのはそのためである。
それでは以北、以西についてはどうであったか。それは今も「嬉野しょんがい」として形をとどめるスタイルを頑強に守り続けていたのである、私が自身で確認した音頭取りによる踊りの北限は 今の津市香良洲町である。若干の違いはあるがここも同様のスタイルであった。理由はいくつかあると思う。が、最大の理由がある、それは__主たる踊りは「かわさき」だった__こと。「しょんがい」は主役ではなかった。それでも評判は伝わり徐々にではあるが浪花節スタイルも浸透していった。そんな中に田中芳松氏がいたのである。(この辺のことについては後日「かわさき」の項で詳しく述べる)。
さてあまり長々しい説明ばかり続けているのも少々くたびれた。 が、 も少し辛抱しよう。
実は今悩んでいる。このまま「しょんがい」に絞って話を進めてもよいのであるが、すでに私自身の軌跡と重なってきているのだ。