中南勢音頭通信 (しょんがいの巻)7 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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中南勢地域における音頭・踊りの紹介をベースに
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日本中が浪花節のブームに沸き返っていたころ 当時、飯南郡西黒部村(現松阪市西黒部町)で一人の逸材がこの試みに励んでいた,道風国造18831955)。明治16年の生まれであり、日露戦争出征のしるしが地元の意非多(おいた)神社に残されている、この人がいつごろから芸の世界にのめりこんでいったのかはわからない、しかしながら次男、(しげる)氏(19182010)が京都に出て 酒井雲 に弟子入りし(つまり村田英雄とは兄弟弟子)、本物の浪曲師となった(子雲襲名)ことを考えると、「もって生まれた血の騒ぎ」に突き動かされていた と考えて差し支えはない。
 

 

ともかく国造氏の試みは折からの浪花節ブームとも相まって、熱狂的に迎えられ 瞬く間に拡散していったのである、しょんがいの父 しょんがいの元祖といわれるゆえんである、
 

 

かくて、各地に多数の名人上手たちが誕生することとなる。
 

 

 宮古のおとさん、田辺(たぬい)の中西,オイズ(大淀)のとしやん、朝長の稲葉、斎宮の吉田、早馬瀬の、ン、漫才師・・・そう 岩田 よく耳にした名前である。もちろん地元西黒部近辺においては枚挙にいとまがないほどであった。この辺の事情は「屋台からこぼれるほどに」と形容された。 
 

 

こうして絶頂期を迎えることとなった音頭、踊りであったが、ほどなくやってくる厳しい冬を前に、すでに秋風は吹いていたのである。もはや娯楽の王座には映画が君臨し、そしてテレビの登場。どんな小さな在所(村落のこと、この辺ではふつうこの言葉が使われる)でも屋台を持ち、えしきとよばれる各村それぞれの祝際日を設け、(盆明けの817日に始まり、10月初めまでほとんど毎日、下七見に始まり、丸の内で終わる、といわれた、)ジュリアナ東京に負けない賑わいを見せた踊りであったが、日本も高度成長期に入り、仕事のほうが忙しくなり、レジャーも多様になり、まさに櫛の歯が抜け落ちるがごとく減衰していくのである、
 

 

  (本編は室町調で迫ってみた)