中南勢音頭通信 (しょんがいの巻)9 山川正治 福井文衛門 | 私が言っては遺憾会(中南勢音頭通信)

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 山川正治19121980  

 

悩んだ結果、やはりこの人に御登城願うことにした。現松阪市保津町、明治45年生まれの伝説の巨人である。氏が十八番とした演題がある。 
 

 

   「福井文衛門
 

 

松阪市東黒部町公民館の作成された資料を基に ざっと解説しよう。
 


   

時は慶安元年、名張の二万国大名 藤堂高吉 には伊勢領があった。(そのいきさつについてはここでは述べない)御糸三十九ヶ村である。

全国的に凶作の続く政情不安なこの年、この領地の代官所は飯野郡保津村(現松阪市保津町)にあり赴任してきたのが 福井文衛門 五十二歳であった。

自身に課した任務 各村々の民情視察のその中に、出間村の窮状を知る、水利が悪く稲作の困難な村であった。だが 水路さえ引ければの願いが届くこともなかった、水路の引ける行く手は機殿神社(伊勢神宮に織物を奉納するための神社)が遮っていたのである、

このことを知った文衛門はいろいろ手は尽くしたであろう、が やはり叶うことはなかった。そして決断する。

慶安3520日夕刻時 出間村民に対して総出会いをかける、神域内掘削の許可が出たとの文衛門の号令一下、夜を徹して水路を掘りあげたのである。

通水を喜ぶ村人たちを見届けた文衛門は屋敷に帰る、姿の見えぬ代官を訪ね 屋敷を訪れた村人たちの前には神域侵犯の罪を一身に負って 自害切腹した代官の姿があった。 というもの。


 
 よくできた話であるが 実話である。作詞されたのは東黒部町の二十五柱神社(出間の近くにある)の宮司。実は浪曲の演目として作られた。これには逸話があるので紹介しておく。
 

 

 

 例年どおり山川氏はこの神社での踊りの屋台の上にいた、この「文衛門」を演り終え 交代すると一人の立派なひげを蓄えた老人が上がってこられて
 
 

「あなた今の演題はどうなされました?」山川氏が「これは道風さんに頂いたものです」と答えると、老人はこっくりうなずき、「そうでしょう、それはわたしがつくって道風さんにさし上げたものです」とおっしゃった。
 

 

この話は、この時同じ舞台にいた大泉幸平氏(音頭協会2代目会長)からうかがったものであるが、山川氏の長男 章氏の話とも通じる、
 

 

ここでの道風さんとは 道風国造氏の弟 茂 氏のこと、すでに浪曲師としての道を歩みつつあった茂氏に送られた作品であった。いよいよ京都に根を下ろし ふるさとを去るにあたって託されていったのであろう。
 

 

なぜ山川氏に? 愚問なり! その圧倒的な器量 力量の故を疑う者はいない。
 

 

長くなりました。やっと本題に入れます。
 

 

「福井文衛門」、二つのヴァージョン、ご堪能あれ
 

人名、年号、年齢等にデータ違いがあるが気にせずに。



             

           保津ver.はこれ

 

 

 

          朝田ver.はこれ