室町氏によればこうです
まず1400年ほど前のこと、日本に仏教がもたらされた、「経文」「祭文」という形で同時に文字も、経文はもちろん今も仏門の中に。祭文は外に出て歌い芸となり 祭文―デロレン―チョンガレ―うかれ節―浪花節―浪曲という歴史をたどるというもの、
都で大いにもてはやされた芸人たちも、数も増えすぎ、熱も冷めると地方に散る日が来る、 居付くところが見つかればよい、中京祭文、九州祭文、上州祭文(上州左衛門)、新潟祭文、等、等、門付けに回るもの、道端を職とするもの、果ては乞食祭文にまで落ちる者もいる、こういう芸人たち、および芸そのものをチョンガレ(願人坊主)と呼んだ――これが全国に散り広がり 中南勢地域においてはしょんがい しょんがり しょんが(初賀)などと呼ばれ、地の果て津軽に届いたときそれは じょんから と呼ばれることとなった――ということです
明治12年、東京市は芸人に鑑札を下付することとなった、営業許可証である、この時の芸人たちの中心人物が 浪花亭駒吉 という人、その時採用した名称を 自分の亭号からとって浪花節とした、それまで祭文、チョンガレ、他さまざまに呼ばれていた唄い芸が浪花節に統一されたのである
これぐらいにしましょう、この解説は読み物としても本当に面白く、機会があればぜひ読んでいただきたい、 が、 しょんがいの話をせねばなりません
人間というものは嬉しさ、楽しさの表現として踊ります、断じてあきらめの気分で踊れるものではありません、アドレナリンの分泌を促す行為です、その時伴奏が必要です、それが音頭です、
ではなぜ音頭が浪花節なのか、
今でこそ 信じられないようなことですが、かつてこの日本には浪花節こそ娯楽の王、浪花節でなけりゃだめという時代が確かにあったのです、映画にとってかわられるまでは. >
・参考資料
日本大百科全書(ニッポニカ)の解説
願人坊主
がんにんぼうず
僧形の大道芸人 。依頼者にかわって代参(だいさん)、代待(だいまち)、代垢離(だいごり)をする代願人。
もと江戸・東叡山寛永寺(とうえいざんかんえいじ)の支配下で、僧侶(そうりょ)の欠員を待って僧籍に入ることを願っていた者たちをさすという説もある。
江戸時代には藤沢(ふじさわ)派(羽黒(はぐろ)派)と鞍馬(くらま)派の2派があり、江戸の市街地で集団生活をしていた。
元禄(げんろく)(1688~1704)のころには馬喰(ばくろう)町や橋本町に住み、天保(てんぽう)(1830~44)のころには芝新網町、下谷山崎町、四谷天竜寺門前のあたりに住んでいた。
判じ物、御日和御祈祷(おひよりごきとう)、和尚今日(おしょうこんにち)、庚申(こうしん)の代待、半田行人(はんだぎょうにん)、金毘羅行人(こんぴらぎょうにん)、すたすた坊主、まかしょ、わいわい天王、おぼくれ坊主(ちょぼくれ、ちょんがれ)、阿呆陀羅経(あほだらきょう)、住吉踊(すみよしおどり)などの異称があるのは、彼らの大道芸が多種多様であったことを物語る。
滑稽(こっけい)、諧謔(かいぎゃく)をなし、卑俗な芸を演じたため民衆に親しまれた。門付(かどづけ)の祭文(さいもん)も語り、後の浪花節(なにわぶし)やかっぽれに影響を与え、歌舞伎(かぶき)にもその風俗芸能が取り入れられた。[関山和夫]