今、心に残っているのは、歩き遍路を実際に結願するには、三つのゆとりがj必要であると。
時間、資金、体力。
歩いて回るには、40日程度は必要。
当然、その間の生活費は必要。
何より、歩き通す体力が必要。
学生の頃、時間と体力はどうにかなるかもしれないが、資金が?
壮年期、資金と体力はあっても、時間が、?
退職して、時間も資金はあるが、果たして歩き通すだけの体力は?
もちろん、三つのゆとりがあっても、そもそも発心しなければ。
私を突き動かすもの、あるいは、帰依心があるかどうか?
身も心も投げ捨てて、ひたすら帰依すれば、ゆとりは条件にはならないか、、。
しかし、それは突き詰めると、結願をも目指さず、遍路の路傍に死すも可なり になれ
と要求されることか?
ここで、考えは漂う。
子育て も、まさしく、このゆとりが必要だろうか。
自分の求める水準を保ち、子を育てることは最早、かなりの贅沢か?
いったい、全体どうしたことだろう。
少子化と言い、高齢化といい、出生数をどうしたら増やせるか? と議論が。
その一方、子供の貧困率は、6人に1人とか。
今いる、子供を大切にできないで、何の出生率UPだろう。
貧困には、絶対的貧困と相対的貧困がある。
遍路の例に倣うなら、
身も心も捨てれば、遍路にいつでも出られる。お前の帰依心が足りないのだ。
身を投げ出す、覚悟、帰依心が足りないのだ。
それは、絶対的貧困に陥っている状態しか貧困と認めない姿勢だろう。
何とか食うだけならできるだろう、昔はそうして子を育てたということになろうか。
自分の生活など顧みず、子どものために身を削るのが親たるものだろう。
相対的貧困。社会的な平均収入(所得)の1/2以下である場合。
その家庭の子供は、様々な制約を受けるのである。
教育の機会が制限されるだけではなく、社会的視野の狭さを往々にして持ち、
自らの可能性を感じることが出来ず、夢を持つことさえ放棄する。
相対的貧困は、社会全体がどんなに裕福になったとしても、
富の偏在、社会の分断が進めば、深刻なものになろう。
豊かな日本 と言われるなかの、子供の貧困。
社会的再分配の課題である。
帰依心 だけでは、解決できない。