徒然(2024/06/16) | 道のブログ

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最近、やたら自分のステータスをアピールする人が増えたように念う。SNSでもこの種の文言が蔓延っている。それは受け取る側も発信する側も双方とも本物を見抜く目が養われていないことが原因のように念う。剰え、そういうのをメディアが率先してやっているので、それに従い情報発信する側も似たように自己紹介を含めるのだと念う。  


自分のアイデンティティを持っていないから、この種の客観的な評価で満足しているのだと念う。


僕は予てより微妙な感覚を掴む能力が現代の人は鈍ってきているように感じている。周りの人に限っての話だが、少し話せば察して貰えるであろうこと話すとき、相手にその想像力を仮定出来なくなってきている。日本人の美徳であろう、察するという能力が衰えているのではないかと念う。


だから、安易にステータス誇示に走る。本物を見抜く目が養われていれば、そういうことをしなくても本物だと感ぜられる。悲しい哉、そうしないと人は理解できなくなってきている。それをどうすればよいのか、なかんずく、どうすれば人に伝わるのかということが僕にはわからない。


周りの少数の人に影響を与えることは出来ようが、果たしてそれになんの意味があろうかと念う。けれど、出来ることは出来るなりにしていきたい。


幽玄の美にしても秘すれば花にしても、そういう隠すという概念が消えつつ、何でも兎に角オープンにすればいいという風潮になっている。


分かりやすい文言を入れることでしか良さが分からないようになりつつある昨今の情勢に危機感を覚える。本質を見抜く目を養うことでよくなれば期待している。


では、どうすれば本質がわかるのかというのは、やはり人との付き合いや読書量で決まるのではないかと念う。要はその絶対量が少なくなってきているのだと念う。 


ネット中心でしか情報を得ないと知識というのは深くはならない。そこに深い知識というのがあまりないからである。


大事なことは今は無料では得られなくなっている。昔はそういうのも転がっていたのかも知れないが、何でも金銭を取る資本主義の悪しき風習が今はある。


そんな中にあってはネットで安易に情報を得られると期待しないほうが良い。剰え、印象操作する様な内容ばかりしか上がっていない。


それでは本質を見る目を養うどころか、本質を見る目を損なうだけである。


じっくりと時間をかけて本を読んだり、人と真面目に付き合う中でそういう目というのは培われる。それに近道はないように念う。


効率重視の昨今に於いて、そういう泥臭い事を格好悪い事のように思っているのかも知れないが、効率的に吸収したものと言うのは記憶に定着しないのである。子供の頃の記憶を鮮明に覚えていることにしても、それは泥臭い方法で試行錯誤しながら習得したから、歳を取っても覚えているのである。それを避けては知恵とはならぬだろう。