ある人があることをしたくてしているのを、正義心から行っていると本人自体も誤認し、他者も誤認している様な例をSNSでよく見る。
社会的、常識的に良くないことを叩くという行為が黙認されている。だから、ストレス発散か何かのためにそう言う発言をする。それは別に正義でも何でもない。
そういう環境に僕は身を置きたくない。自身が純粋かどうかそんなことは他者が判断すことだから気にしないが、少なくとも、そういうSNSもあり、自身はそこに身を置きたくないとだけ言っておく。
正義心というのは口に出すよりも、寧ろ行動に出るものである。例えば妊婦の方がいたら席を譲るにしても言葉は必要なく、さっとその場を去る。口に出すと逆に嫌らしさが出るものである。
ところが、そのへんの道理を弁えてない人が多い。口に出すことが正義だと勘違いしている。本当に行動する人は口に出す前に行動に移す。だから、口が達者な人というのは僕はそうなれないと思いつつ、少し冷めた目で見ている。
けれど、そういう行動をみてくれる人も中にはいる。そういう人は口は達者ではない事は多いが、恐らく、その人自身がそういう行動をとっているから分かるのだと思う。
武士道にしても畢竟はそういう行動としての学であって、口が達者な人とは異なるものだと思う。
今はその口が達者なことと頭の良さが比例すると見られている嫌いがある様に思う。だが、相関関係がないとまではいはないが、必ずしもそうでない頭の良さもある。行動に早く移すという意味で、口の達者とは違う頭の良さである。
そういう人もちゃんと評価されてこそ、いい社会というものである。葉隠にしても行動としての学であり、口が達者なことの学ではない。
Subjectの和訳ははじめ、西周により主観と訳された、もともと見ることに主点があったからこの訳はその当時としては正確な訳であった。ところが、今はその意味が薄れ行動を伴うという意味で主体と訳される。
見るというのを頭だけで考えるという意味に解釈すると、頭だけで考える主観から、行動で考える主体へと変化を遂げたということである。これをそのまま西欧史の変化と捉えることができるのではないか。
ところが、先の口のうまい人を頭が良いと見做す昨今の日本は、未だに主観的な頭の良さを重視しているということを意味する。主体的な頭の良さへと移行する必要性を感じる。
もともとの日本はこの主体的な人が評価されたのではないか。坂本龍馬にせよ、主体的な人である。葉隠にしてもこの主体である。こういうものから暴力性を除くといいと思っている。正義にしても主観としての正義を振りかざすのではなく、主体としての正義を行うようになれば良いなと思う。