日常会話は大抵は今日はという限定付きである。恒常的に正しい論理学の会話をするなら兎も角も日常の会話はそういうものではない。
けれど、それを理解出来ない人が存在する。Aという言説がなされたとする。それをいちいち今日はAであるが、明日はAとは限らないなんて条件付きでは話さない。
このコンテキストならこうと正常な人間なら当たり前に処理をするからである。常に解釈の余地が日常の会話である。それゆえに誤解が起きることもある。その誤解は話すうちに解けていく。
ところが先のなんでも恒常的にAと思う人はそれで解けていく様な誤解ではない。むしろ前提からして解け得ぬものを含んでいる。
そういう人に出会ったとき僕が出来ることはなんだろうか。今までその様な人に出会って来なくて困惑している。
けれど今の人はそうなのかもしれない。マニュアル外のことは預かり知らぬことと思っているようである。マニュアルは論理学と同じ様にAという事象があればマニュアルが変わらない限りはAである。だが、それ以外の事象というのは仕事をする限りは出てくる。
マニュアルだけ頭に入れて他は知らぬというようでは仕事はできぬ。というより日常に支障が出るはずである。当然その日常には仕事も含む。学校の勉強ができる秀才であってもこの手の人は少なからずいると思われる。
日常にAという問いがあったとき必ず答えがあるわけではない。答えに近いものを考えるのが日常であって、状況、文脈、人によってすら答えは変わってくる。
初期条件の違いで多彩な現象が起きるカオスの現象が日常である。その変数は膨大である。そんなものに答えがあると思わぬほうがよい。ただ人は失敗を繰り返すうちにアップデートされていき、その実は膨大の変数のハズの現象を扱えるようになる。それが人としての成長である。
そのマニュアル外のことが動けぬ人間は、状況判断のアップデートがうまく行っておらぬところが見受けられる。
人は僕は生きている限りずっと成長をやめないことができる生き物だと僕は思っている。生まれてこの方僕自身成長を辞めたことはないし今後も成長していくと確信している。
ただ日常をダラダラと過ごしたとて到底成長はしない。それでよしとしたところで人は成長を停める。
限界生産力逓減の法則というものがある。だんだん値を大きくしていくうちに臨界値に極限まで近づいていく法則である。おそらく人は成長というのはそういうものと思ってるかもしれない。
