徒然(2024/03/06) | 道のブログ

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福田恆存の「覚めて踊れ」ということは、浅田彰の「シラケつつのり、ノリつつシラケる」に通じるのではないかと思う。

 

前者は夢の外で踊る、後者は、夢と現との間で均衡を保つ態度ではあるが、どっちも覚めた(冷めた)態度で現実を見つつ、その中で足掻こうとする姿勢という点では似たようなものがある。


けれど今の一流の人といわれる人は、水面下で足掻いていても、それというのは人に見せたがらない。だから一見すると冷めてるようにしか見えないくもない。  


その水面下の努力というのは見せないのが現代のように思う。


僕自身そういうところというのは人には見せたくない。それは格好悪いからというわけではなく、わかってもらえる人にだけわかってもらえればいいという思いがあるからである。


そういう態度というのは幽玄に繋がるのではないかと思う。


大谷翔平にしても藤井聡太にしても、そういうのを表出しようとはしない。


中には余りにも自己顕示欲の強い人もいる。そうせねば評価されるか分からないからだとは思うが、そういう人が大半を占めているような気はしている。


そういうことに幕を自ら落とし、自分の世界を築こうとすることこそ今必要なのではないかと思う。 


西部邁のいう庶民とは、そのような人で、大衆とは違うものとして扱っていたのではないかと思う。


そういった意味で僕は庶民でありたい。


大数の法則が今の大衆社会の前提になっている。単純に数が多い方が勝つ論理である。


例えば、処理水にしてもマイクロプラスチックにしても少数の漁師の意見は聞かれずに、大多数の大衆の意見だけがまかり通る。とはいえ仕事を放棄したら、漁師の給料はなくなる。だから、そういうことはしない。この論理は、原発ジプシーにしても同じである。


結局、立場の弱い人が損をする構図になっている。


先の幽玄の話に戻るが、少数派も行くところまで突き抜けたら、評価をされるようにはなる。大数の法則が通用しなくなるまで行けばいいのではないかと思う。言うは易く行なうは難し。自身も出来るか不安しかない。