第七夜 『母を褒める』
「あら〜可愛い!チカちゃんは何でも似合うわねぇ。」
娘の千賀を手放しで褒める母・朱美を、由美は複雑な気持ちで見つめていた。
側から見れば、ただ祖母が孫を可愛がる、微笑ましい光景に違いない。
新しいカチューシャをもらって、無邪気に喜ぶ千賀。甲斐甲斐しくつけてやる朱美の姿は、"良いおばあちゃん"そのものである。
由美は、口の中に広がる苦々しさを、出来るだけ無視しようと努めた。
「ほら千賀、ありがとうは?」由美が促すと、千賀は少し俯いて、
「おばあちゃん、ありがと。」と呟いた。
「まぁまぁ、どういたしまして。偉いわね〜ちゃんとお礼まで言えて。」
ワントーン高いところから繰り出される声はしかし、由美の神経を逆撫でする一方だった。
由美は、母朱美と折り合いが悪い。
育ててもらった恩はあるし、感謝もしている。
しかし、幼い頃から積み重ねてきたわだかまりは、この先も消えそうになかった。
「もっとはっきり喋りなさい!」が、朱美の口癖だったはずである。
しかし、同じく内気な千賀に対して、その言葉が発せられたことはない。
由美も昔カチューシャを欲しがったことがあるのだが、その時は「あんたにこういうの似合わないわよ。」と一蹴された。朱美は覚えていないらしいが。
由美は、今感じている不快感の正体に気付いて愕然とした。
私は娘に嫉妬している。
小さい頃は、自慢の母だった。
明るくしっかり者で、人当たりも良い。ハキハキとした美人で、友達に羨ましがられた。
朱美はよく脈絡なく怒ったが、それにはちゃんとした理由があり、由美のためを考えているからだと、しばらく信じていた。
しかし大きくなるにつれ、由美はあることに気付き始めた。
母はどうやら、自分の感情と自分のタイミングを、何より優先するらしい。
4つ上の兄との扱いの差も、納得がいかなかった。
例えばテストで同じ点を取っても、兄は前より上がったと褒められ、由美はもうちょっと頑張れないのかと顔をしかめられた。
兄は、何かにつけてお兄ちゃんだからと優遇されたが、由美は女の子なんだからと許されないことが多々あった。
しかし今、千賀に対する態度を見ていると、男とか女とか、あまり関係なかったんだなと思う。
由美は思わず、少し嫌味を込めて言った。
「千賀のことずいぶん褒めてくれるのね。」
すると朱美は、「そりゃそうよ。私の孫だもの。」と、さも当たり前という顔で返した。
付き合いの長い、諦めに似た感情がまた湧いてきた。
ふと奥を見ると、黙って新聞を読んでいた父と目が合う。
同情のこもったまなざしに、由美は少し救われた。
軽くすくめた肩は、「母さんはこういう人だから。」と雄弁に物語っている。
由美は、この穏やかな父が好きだ。
知的で物静かで、決して怒らない。
なぜ母のように感情の起伏が激しく、矛盾した人間と結婚したのか、不思議に思う時もある。
実際母は、父に向かって「本当は他に結婚したい人がいたんだからね。」などと悪びれずに言い放ったことがある。
父はただ、参ったなぁという顔をして、微笑んでいた。
それでも30年共に暮らしているのだから、夫婦はわからないものだ。
学者である父は、よく遠い目で考えごとをする。どこか別の世界を生きているように見える時がある。
対して母は、目の前の現実をたくましく闊達に生きている。
間を取った自分は、何だか宙ぶらりんな存在だと、よく由美は感じていた。
実家にいた頃の由美は、父のように割り切ることもできず、ずっと歯痒かった。
何とか母に、自分を認めてもらいたかった。
一度だけ、本気で怒ったことがある。
結婚前提で付き合っていると夫を初めて紹介した後、良い顔をしないことまでは予想できたが、あろうことか、勝手に由美を結婚相談所に登録しようとしたのである。
朱美は、あんたのためを思っての一点張りで謝らなかったが、由美はありったけの不満をぶちまけ最後にこう叫んだ。
「本当は好きになりたいのに、お母さんの言動の一つ一つが、その気持ちを打ち消そうとしてくるんだよ!」
それでも大嫌いとは言えない由美の、精一杯の抵抗だった。
朱美は珍しく黙ったままで、次の日、一緒に映画を観ようとビデオを取り出してきた。
「愛と追憶の日々」という少し前の洋画。母と娘の30年の軌跡を綴った名作だ。
断わろとしたが、朱美は一度決めると梃子でも動かない。
映画自体は素晴らしかったが、感想には正直困った。
シャーリー・マクレーン演じる母親役の表情や仕草が、朱美によく似ていて驚いたのを覚えている。
いつものごとく一方的なやり方だが、母なりに、感じていることや伝えたいことがあるのはわかった。
その時だけは、ようやく少し通じ合えた気がした。
とはいえすぐに、また元の日々に戻ってしまったのだが。
子供ができた時は、咄嗟に娘じゃなければいいと過ってしまった。
可愛がる自信がなかったし、母のようになりたくなかった。
しかし、何の因果が娘が生まれると、自分がされたかったことや言われたかった言葉が溢れてくる。
千賀と過ごす時間を通して、子供の由美が癒されていくようだった。
ようやく気持ちに余裕が出てきて、母に、孫と過ごす時間を増やしてあげようと思った。
その結果が、今日の有様である。
帰宅後、朱美の言動を振り返って、遅れて虚しさが襲ってきた。
由美は、何十年と叶わなかった望みを、改めて痛感した。
ただ、母に褒めてもらいたかった。
さすがは私の娘と言って欲しかった。
由美が何を求め何に傷付くのか、共感までせずともせめて、理解してほしかった。
あぁ私、まだ諦め切れてなかったんだなぁ。
そう思うと目の奥が痛くなってきて、由美は思わずしゃがみ込んだ。
その時、髪に何かが触れたのを感じた。
顔をあげると、千賀が小さな手を伸ばして、おずおずと上下に動かしている。
どうやら撫でてくれているらしいと気付いた時、千賀が小さく歌うように言った。
「ママ、泣かないで。ママはえらいよ。いい子だよ。」
そして、由美がよくそうしてあげるように、ぎゅっと頭を抱きしめた。
次に溢れてきたのは、先程とは全く違う涙だった。
由美は千賀を力強く抱き返した。
小さな身体から伝わってくる温もりは、由美のすべてを肯定していた。
次に帰省した時、夕食を共にしながら、由美は計画を実行した。
ささやかな復讐を思いついたのだ。
朱美の顔をまっすぐ見て、心からこう言った。
「お母さん。やっぱりお母さんのご飯美味しいね。さすがだわ。」
「やだ気持ち悪い。突然何よ。」予想外の攻撃に、朱美は居心地が悪そうだ。
その様子は痛快だった。父が軽く咳払いをして、笑いをごまかした。
由美も、心の中でほくそ笑む。ざまあみろ、これから褒めて、褒めて褒めまくってやる。
そして、いつか観た劇中のデブラ・ウィンガーのように、「あははっ」と軽やかに声をあげた。
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