「こんにちは。スマイルキーピングの里中です。」
いつも通り、6割程のテンション、4割程の笑みを保ちつつ、結衣は玄関先で待つ。
この仕事を続けて早7年。
必要以上にスマイルをキープしたことはないが、それで問題になったこともない。
人と関わることが苦手で、黙々と家事をすることは好き。そこそこ大手の事務職を依頼退職した後、収まるべきところに収まったもんだと、結衣は思う。
不特定多数の人間と初めて会うことが多いという点では、もちろん常に平穏無事という訳にいかない。
派遣元も何度か替わったが、今の会社は比較的クライアントの質が高い。つまり、きちんと仕事をこなしてさえいれば、一介の家事代行者に関心を持たないでいてくれる、現代人が多いのだ。
とはいえ、今日の結衣は少しそわそわしていた。
「はーい。今行くわよぉ。」
こちらもいつも通り、朗らかな返事が聞こえてくる。このクライアントは、ちょっと違う。
ハナさん、と言った。
まもなく古希を迎える老婦人だが、結衣の倍は元気だった。
上品に巻いた髪、毎度違うアクセサリーを華やかな衣装に合わせ、いつでも優雅なランチへ出かけられそうだ。
高齢の為、家の中を手伝ってくれる人が必要との事だったが、基本的に部屋は綺麗で、食事の量も多くない。
作業は全く苦にならない。
結衣にとって問題があるとすれば、週に1回丸3時間、ハナさんは外出などせず彼女に付きっきりなのである。
小洒落た装飾の扉が開く。
予想通り、そこには満面の笑みが待っていた。
たぶん結衣の人生において、顔を合わせる度にここまで歓迎してくれるのは、ハナさんか昔飼っていた柴犬くらいである。
手の込んだティータイムが用意され、本来結衣が作るべき夕食も、何なら提供されることさえあった。
初めの頃は、自らの領分を侵されるようで煩わしく感じた結衣だったが、最近は何だかこそばゆいような、楽しみにしているような自分がいる。
それでいつも、ハナさんの玄関先ではそわそわしてしまうのだ。
郊外のこぢんまりとした家に一人住むハナさんは、およそ優雅な趣味と聞いて思い浮かべるものは全て嗜んでいた。
紅茶、お茶菓子、クラシックにシャンソン、油絵からガーデニングまで。一つ一つ丁寧に、知っていることを教えてくれた。
結衣は時々、ハナさんは貴族かおとぎ話の住人じゃないかと思うことがあった。
「2人だけの秘密にしましょ。」と言われて、一緒に映画を観たこともある。
「幸福の黄色いハンカチ」という昔の邦画だった。
結衣は久しぶりに声をあげて笑い、そして初めて人前で泣いた。こっそり涙を拭って横を伺うと、ハナさんはその倍号泣していた。
そして、いつか夕張を旅するのが夢だと言った。
「結衣ちゃん、今日は着物を見せようと思ってたの。だいぶ古くなっちゃって、大した価値もないんだけどねぇ、本当に綺麗な刺繍のがあって…」
のっけからハナさんは、結衣を奥の間へ案内した。
他愛もない内容ばかりだが、口を開いているのは8割がた彼女である。
上機嫌な様子に、結衣の顔もほころんだ。
しかし、アンティークな箪笥の一段目、引き出しいっぱいに入っていたのは、着物ではなくハンカチだった。
色とりどりの、何十枚ものハンカチだ。
結衣が驚いて見ていると、
「あらやだ間違えちゃった。着物は一つ下だったわ。」
右手で頬を抑え、悪戯が見つかった少女のような顔をして、ハナさんはこう続けた。
「昔ね、悲しいことや辛いことがある度に、ちょっとでも慰めにならないかと思って買うようにしてたの。そしたらこんないっぱいになっちゃって…とっくにやめたわ!」
そして、整然と並べてある中から一枚、小さなたんぽぽの花が描かれているハンカチを取り出すと、「はい、幸福のおすそわけ。」とおどけて、結衣の手に納めた。
「ハナさんてば。悲しい時に買ったんでしょう?」だいぶ軽口をたたくようになった結衣が茶化すと、
「そうよ。だから、幸せになりますようにと願って買ったの。うんと念が込められてるからね。」と嬉しそうに笑った。
それからほどなくして、ハナさんとの契約は解除された。
遠方に住んでいた親族が引き取り、ホームに入所させることになったそうだ。
最初に違和感に気付いたのは、おそらく結衣だった。
まさかと思いつつ、少しずつ増えていく物忘れから、その可能性に思い当たった時は、心臓が凍るような気がした。
上司に報告したのは自分である。
居心地の良い、小さなお城みたいな我が家から、ハナさんを追い出してしまった、そのきっかけを作ってしまった。
すべきことをしたんだといくら言い聞かせても、罪悪感は消えなかった。
知らせを聞いて、ハンカチを見つめながら、結衣は悔やんだ。
たくさん話したはずなのに、ハナさんの事を思ったより知らないことに気付いた。
きちんと別れることすらできなかった。
せめて、この一枚に込められたエピソードだけだも、聞いておけばよかったな。
思い立って、結衣は3日間の有給を取った。
今日から初めての一人旅。最終目的地はもちろん、夕張だ。
黄色い花のハンカチは、お守り代わりの旅の友。
花言葉は神託、幸福、そして別離。
右手に握ったそれを空高くかざして、ひとしきり風になびかせた後、結衣は北へ、最初の一歩を踏み出した。
**********