「因子を見える化し、本来あるべき姿に近づく」トヨタ生産方式(TPS)について、説明させてください。
現場のなぜなぜ分析、トヨタ思考は、問題を「厄介なもの、自分以外のせい」として外側に置くのではなく、現状を因子分析します。問題を素材として扱い、素材を細かく分けて、イメージや勘ではなく、点検することで、曖昧さを取り除き、真因を明らかにしてい来ます。
わたしが、マーケティングの仕事をしていた時も、
売り場改革では、
モノ(在庫・配置・動線)
ヒト(動き・負荷・判断)
工程(順番・ムダ・滞留)
道具(棚・什器・情報ツール)
これらを一つずつ点検し、「本来あるべき姿(Ideal State)」に近づけていくには、
現場での「見える化」 →気づき→「改善」→本来あるべき姿に近づくという循環を回します。
見える化とは、「何が起きているか」、イメージ、直感ではなく、因子(要因)を細かく分けて点検することで実態を把握する、または問題の所在をみんなが見えるようにする、感覚ではなく事実を共有する取り組み。
気づきとは、どこにムダ・ムラ・ムリ、歪み、滞り、阻害要因があるかを発見する。
改善、小さな一歩を積み重ねる継続で、理想状態へ、本来の姿に近づく。
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売り場を本来あるべき姿にするとは、ムダを取り除き、モノ(商品)、動線(人の動き)が流れるようにする。ストック(余剰在庫)、売れない商品が滞留している状態を無くしていく。
滞留していた在庫、無駄な(効果がない)動線、見にくい、探しにくい、分かりにくい売り場、壊れた道具、不要な工程を無くしていく。
「不」を改善し、「易」を増やす。流れを阻害する因子を1つずつ外していくことで、流れを取り戻す。見易い、分かり易い、買い易い…で、売り場が整うと、商品の回転率も良くなり、お客様にも買いやすい売り場になり、働く人も楽になる。
働く人が楽になるというのは、余分な在庫を持たない、適正適量、定数、定位置で管理が楽になるからです。
そして、クリシュナムルティについて、説明させてください。
クリシュナムルティは、キリストの再来と言われましたが、本人は明確に否定しています。
「覚醒→自由」の軌跡を辿ってみましょう。
目覚め(Awakening)
幼少期、神智学協会に「世界教師」として見出され、そうなるべく育てられたが、クリシュナムルティは、次第に自分に課せられた役割に疑問を持つ。
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覚醒(Insight)
クリシュナムルティを長とする「星の教団(オーダー・オブ・ザ・スター)」が創立されたが、それを解散させた。組織の在り方に疑問を感じ、「真理は道なき大地である」、真理は組織化できないと語った。これは、権威の鎧を脱ぎ捨て、自らの内なる心の自由を選んだ瞬間、覚醒でした。
自由(Freedom)
クリシュナムルティが言う自由とは、「条件づけからの自由」「恐れからの自由」「思考(イデー)、動機なし行為からの自由」でした。外側の条件付けを外す。周りから流れ込んできたもの、幾千人の自分以外の声ではなく、自分の心の王国。
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行動(Action)「理解が行動を生む」やらされ感ではなく、理解から生まれる行動のことです。自分自身の中から本当に出てきたものですか?と。社会や親の意見を自分の意見にすることのないように。
これは、アドラーの目的論と響き合う。人間の行動には目的がある。テレビを寝ながら見ているのは、「リラックスしたい。時間を潰したい」からかも知れない。あるいはストレスがたまっていて、その出来事を考えたくないからかも知れない。
社会の変容(Transformation of Society)
クリシュナムルティは一貫してこう言った。「社会の変容は、個人の変容なくしてあり得ない。」
行動を生み出すのは、志が立ち上がるのは、蓄積された過去の原因(闇)、外側に原因を見た時ではなく、まだ見ぬ未来に目的地を描いた時、内側に目標を打ち立てた時である。
クリシュナムルティの痛みを考察したい。クリシュナムルティは「どこにも属せない人」だった。
インド人として生まれたのに、インドの言葉を話せない。英国式の教育を受け、英語を母国語のように話し、白人の家庭で育てられた。しかし、白人社会に入れなかった有色人種の痛みがありました。当時のイギリスは今より、人種的な差別心があり、階層社会だった。肌の色だけで外側の人間として扱われる。
インドにも属せず、イギリスにも属せず、どこにも帰属できない、この宙ぶらりんの立ち位置は、クリシュナムルティの憂いとなった。インドにも帰れず、イギリスにも有色人種としての壁があり、祖国では、「西洋式に染まった」「インドを知らない」と見なされる。
クリシュナムルティの「献身的で共感しやすい」性格、幼い頃から、純粋、優しい、共感的、他者の痛みに敏感、自分を主張しない、利己心が薄かった。
だからこそ、神智学協会は彼を「世界教師」として担ぎ上げた。本人は望んでいないのに、周囲の期待とイメージ投影の中で育てられた。
これが、「自分が誰なのか」「どこに属しているのか」という根源的な問いを生んだのだろう。
クリシュナムルティの思想の中心に、自己とは何かというテーマがあるのは、この痛みと無関係ではない。
自分を主張しない、自分を誇らない、権威を使わない、相手を支配しない、感情で押さない、透明な意識から語る静けさに惹かれる人が多いのだろう。観想の霊性に非常に近い。
だが、「聖なる人」「特別な存在」「道徳的に完璧」「人間を超えた神性」こうしたレッテルが、本人の実像とは関係なく貼り付けられる。
そして、理想化された人、虚像が独り歩きした人ほど、スキャンダルが起きたときに大きく評価は分かれる。
でも実際には、人間的な弱さ、孤独、心の隙、性的な葛藤、権力構造の中での葛藤を抱えていた。そして、クリシュナムルティのスキャンダルは、彼の堕落ではなく、状況の複雑さからきていた。クリシュナムルティのスキャンダルは、倫理観の欠如ではなく、彼の置かれた環境の異常さが大きく影響しているのではないか。
幼い頃からメシアとされ、自分の意思とは関係なく担ぎ上げられる。帰属できない孤独。自分の人生を自分で選べない。
若い頃のクリシュナムルティは、容姿端麗、濃い顔立ちだが、男らしいというより、影があった、物静か、清潔感がある、(晩年は眼光が鋭いが)どこか儚い雰囲気を持っていた。白人の女性たちから憧れられた。
10歳の時、母が亡くなります。バラモンの出だが、貧しい家庭、同行した弟がよき理解者だったが、後に亡くなる。弟ニトヤは、白人女性との恋愛関係にあったという話もある。結婚はしていなかったそうです。心を開け、心を許すことができた、ただ1人な家族だった弟の死。白人の中で有色人種は自分1人という状況に置かれました。
利己心が薄いのに、なぜ、人妻との関係を持ったのか。自分を中心に考えない。むしろ、利己心が薄い人ほど、自分以外のものに意識を向けている人ほど、人間の意識を読みとる人ほど、他者の感情に巻き込まれやすいという面もある。
彼自身が深い孤独と自分の立ち位置の葛藤を抱えていた。そんな時、彼を普通の人間として見てくれる女性たちとの関係が生まれた。結婚すると「世界教師像」が崩れる。周囲の期待が許さなかった。「普通の人間であること」と「世界教師としての役割」の間で引き裂かれていた。
「誰かにありのままの実像としての自分を見てほしい」「誰かとつながりたい」という、後に関係を持つ女性の子どもを献身的に世話したことから生まれた人間的な郷愁だったのかもしれない。
「倫理観がないように見える行動」と「濁りのない透明さを持つ講話」の2つの側面。
倫理の形成そのものが異常な環境で阻害されていた、倫理観を身に付ける、学ぶ環境になかった。同年代の子どもと関わる事なく、大人に囲まれる。愛情を注がれたというより、キリストの再来の投影、期待、幻想を投げかけられた支配だった。自分の身体や人生に対する主導権がない。
家庭の中で、心底心配してくれる人の助言、友人関係、失敗から学ぶものですが、彼にはそのどれもが欠けていた。倫理を形成する土台が与えられなかった。
境界線が曖昧なまま大人になった人は、恋愛や性の領域で相手との距離感、自分の責任、相手の人生への影響を判断する力が弱くなることもありうる。
わたしが言えるのは、クリシュナムルティは聖なる人ではなく、透明な人間だった。そして、人間としての複雑さを抱いていた。
でも晩年の講話を聴いて、「傀儡だったのかな」と思いました。クリシュナムルティは長い間、他人の期待、まなざしの中で真理を求道していた傀儡だった。他人に手綱をとられたかのような、操り人形。
晩年のクリシュナムルティは「傀儡」から「主導権を取り戻す」へと変わっていた。言葉が強くなる。自分の立場を明確にする。依存を拒否する。組織を否定する。自分の人生を自分で選ぶ。世界教師という役割を完全に捨てる。
ようやく傀儡から抜け出し、古き衣、自我を脱ぎ捨て、未踏の大地に立った、自分の人生を簡素に生き始めたと感じた。


