原罪とは何かについてですが、縦(神と人間)と横(人間同士の絆)の断絶です。
旧約の原罪は、関係の断絶です。
アダムとエバ:神との関係の断絶(縦の断絶)
カインとアベル:兄弟性の断絶(横の断絶)
人間は「宇宙から切り離された孤立した、小さな主宰者」になります。
そして、自己不信、他者不信、世界不信、諦め、虚無感に傾いたまま、世界、現実に関わります。私たちが今まで、『こうだったから、こうなってしまった』と学んだ、そのエネルギー、無力感、限界感が今も心に瞬時に届くと、今までと同じ繰り返しの人生を知らず知らずのうちに繰り返してしまう。心理学でいう条件付け、過去の痛みから、やり直し、挑戦の道を歩むには…
神は罪のない世界を創ることもできたはず。しかしそうされなかった。愛の姿を望まれたから、自由意志を与えられた。
心に志や願いを持ち、「イデア・本来在るべき姿」を描いたからといって、それがそのまま「具現化」となることはありません。何となく描いた理想がいつの間にか勝手に実現してしまうなら、それもまた多くの混乱の引き金になるでしょう。
心と現実の世界の壁、精神世界と物質世界の境界、神の領域と人間の力の境界は、それぞれの空間の秩序を安定させる力にもなっているのです。旧約聖書の創造物語では、神は世界を創るときに「区別(separation)」をしました。光と闇を分け、天と地を分け、海と陸を分け、種族ごとに生物を分け、この行為こそが秩序だったのです。
大海に注いでいる水は水質が違う、海水に溶け込んでいる水ですが、流域がそれぞれ違い個性を持ち、粒子H²Oがひとつに集まり、流れています。
心理学でいう境界(バウンダリー boundary)、自我の境界、自他との境界。この境界線が崩れると、外側の現実、他人の感情が流れ込み、混乱、不安、依存、支配が起こりやすいと言われる。
友達、情よりビジネスでつながった関係、協力し合える間柄の方が本物だと聞いたことはある。
違いを超えて結ばれる関係こそが一致、主の平和となります。
「同じような人が集まる場」は本当に平和なのか。「類は類を呼ぶ」というのは、価値観が似ている、好みが似ている、ライフスタイル、バックホーンが似ているという同質性が安心や親密さを感じやすい。
しかし、同質性に偏ると、変化がない、刺激がない、成長がない、「皆同じだったら面白くない」それに異質を排除する、内部でわずかな違いが逆に大きな違和感になる。
閉塞感と停滞、発見がない、「眠ったような世界」単調な日常を生み出します。
カインとアベルは、捧げものが違いました。
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カイン(農耕)土の実りである小麦とアベル(牧畜)羊の初子は、職業の違いからきたものです。そして、主がアベルの献げ物に目を留めたことをきっかけに、カインは嫉妬し、兄弟性を否定し、暴力・闇へと堕ちました。
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称賛の対象となっている他者を引きずり落とすことで、自分の優位性、居場所を守ろうとした嫉妬。嫉妬の目を向けている対象だけではなく、同時にアベルを評価する第三の目も意識していたのではないでしょうか。カインが向き合うべきは、そのカインをもてはやすとしか思えない第三の目だったのではないでしょうか。
単なる職業の違いが嫉妬、決裂を生み出したのではなく、宗教文化の違いにつながっています。カインの土の実りは豊穣宗教(バアル)アベルの羊飼いは遊牧民の犠牲祭儀(ヤハウェ信仰)
海洋国家であるフェニキアには、豊穣・雨・雷のバアル宗教がありました。
預言者エリヤがカルメル山でバアルの預言者たちと対決したのは、巫女と神官の交わりによる儀礼の倫理観、国家権力と結びつく侵食、イスラエルのヤハウエ信仰の危機だったからです。
קַיִן(Qayin) は、動詞 קָנָה(qanahクァナー)=「得る・獲得する」 に由来します。カインは「得た者・所有する者」槍・武器(後の語感)です。
הֶבֶל(Hevel) は、「息・霧・儚さ・虚しさ」を意味します。アベルは、儚いもの・消えやすいもの・虚しさ、主なる神が認めたが、兄に存在を否定されました。
「違い」を受け入れられなかったことが罪の始まりだった。ガブリエル・マルセルは、傲慢は関係性、絆を壊すと言います。自分の方が認められるに違いない、比較・傲慢は、他者との関わりを分断し、自分も孤立し、最後には自己破壊に向かう。なぜ、罪を犯すのか。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。」(ロマ7:19)それにもかかわらず神は根本的に人間を愛されるが、二面性を持つ人間の現実をどう捉えたらいいのか。
神はカインに弱さを背負ったまま生き続けることを促された。
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人が神から逃げ、神の前に罪を持とうとしなくなれば、顔は深みを失い、一見整って綺麗に見えたとしても、顔が見当たりません。存在感、輪郭が希薄だからです。一人の人間が自己の罪を感じることが大きければ大きいほど、人間像は深くなる。平静とは、神が罪を許した時に、その上につけた印なのです。人生に訪れる出会いや出来事と向き合い、それらをすべて自分事として受けとめてゆくとき、すなわち受容の力を最大限に発揮してゆくとき、生きる力は少しずつどこまでも深まり、人生の輪郭を確かにしてゆくのです。(ルイ・エブリュイエ・ピカトー神父の霊性にガブリエル・マルセルのキリスト教実存主義を融合させました)
キリストの平和とは、違いを超えて結ばれる絆です。
パウロが語る「キリストの体」は、コリ12:12–27。教会を「組織」ではなく、body、手は手の働き、足は足の働き、目は目の働き、耳は耳の働き、それぞれが役割を持っている。
人間は個性を持っている。ドッペルゲンガーでもない限り、世界にただ1人、この時代の中でも1人であるように、過去の歴史にも未来にも同じ人はもう出てこない。それぞれの人生、至聖所は唯一であり、その人の内にあるオンリーワンの存在なのである。「一人一人はその部分です」(コリ12:27)


