エリコの物語は、私たちの心の中にあるブロックする壁が、神の働きによって崩されていくプロセスを描いている。
何か理想を実現しようと働きかけると、意図せぬ障害や理不尽とも思えるような妨害など、外からの圧力を受けとめきれなくなると、心の中で不満や反感がたまっていき、最後には切れて拒絶してしまう。こうして目指す未来を創り出せず、最初は強い志があっても、時間が経つにつれてその気持ちが減衰していく、想いはあっても、言葉や行動として具体的に現実に働きかけていない状態、意識も他のことを考えて集中力もなく、いわゆる傍観者、暇つぶしの人生の時間を使ってしまう。
旧約に登場するエリコは、考古学的にも豊かなオアシス都市であった。「エン・エリコ(エリコの泉)」という湧き水が豊富で、乾燥地帯が広がる地にあって、農業が可能な肥沃な土地であった。ナツメヤシ・ザクロ・小麦・大麦・香料。エルサレムに向かう途中、急遽緑の町が見えたので、そこで休憩する旅人も多かったであろうと。
ヨルダン渓谷の北南ルートと、エルサレムへの登り道が交差する交易の要衝で隊商の通り道であったため、商業が発達した。
エリコは難攻不落の城壁の町であった。二重城壁を持つ都市は、富を守るためであった。
手前にラハブの家がありました。ラハブは「遊女」「売春婦」というラベルを貼られていました。ラベリングとは、「この人は○○だ」とラベルを貼ると、その人をそのラベルでしか見られなくなる。ステレオタイプとは、集団に対する固定観念を個人に当てはめることであり、「異邦人は信仰がない」「売春婦は不道徳」。
ラハブも、ザアカイ、バルティマイも、サマリアの女も、このステレオタイプのまなざしにさらされていました。
ほとんどその自覚がありませんが、私たちはものごとに何かのレッテルを貼って捉えがちである。「これは成功」「これは失敗」「これは価値のあること」「これは価値のないこと」「これは部下の問題」「これは上司の問題」「これは県の問題」「これは政府の問題」「これは厄介」「これは楽勝」「これは順調」「これはもうどうにもならない」…。あらゆることにレッテル貼りをして、しかも「これはこういうもの」と決めつけていることが少なくない。それは、力んだ「決めつけ」ではなく、ごく自然に当然の行動になっている。
しかし、私たちが当然のように決めつけている捉え方は、決して確定的なものとは言えない。そもそも、ものごとというのは、もっと柔軟で流動的なものであるからだ。一見、失敗にしか見えないものごとにも、可能性があり、逆に、大成功にしか見えないことも、リスクや制約を孕んでいるからである。
確証バイアスとは、自分の信じたい情報だけを集め、それに合わない事実を無視する。ここではラハブの信仰を見ようとしない。しかし実際は、神を信じ、2人の偵察隊をかくまい、自分の一族を救ってほしいと願い、イスラエルの民の系譜に入る(マタ1:5)、ラハブはルツ記のルツの夫となったボアズの母となった。
ラハブがかくまったイスラエルの偵察隊を探していた王の使者・追っ手やエリコの王、エリコの神々を信仰するエリコの住民、その恐れの壁をラハブは打ち破った。ラハブは城壁の内側の壁面の小屋に住んでいた。考古学でも城壁に接する家屋跡が発見されており、ラハブの物語を想起させるものとして議論されることがある。
恐れの壁から、信仰へ。「主(ヤハウェ)がこの地をあなたがたに与えられたことを、私は知っています。上は天、下は地において、あなたがたの神、主こそ神である」(ヨシュ2:9-11)。社会的に貼られたラベル、遊女から神の民へとなった。
こうした固定観念が、ある出来事をきっかけに一気に崩れる。神は出来事を通して、真理に気づかせてくださっている。出来事が認知を揺さぶり、壁を崩す。壁が崩れる瞬間は認知の再構成(リフレーミング)と呼ばれる。
旧約のイスラエルの民は、不満をぶつける・怒りを周囲に向ける・自分の感情を制御できない・助けても感謝しない・問題や苦難を神やモーセに押しつける。こういう民に忍耐し続けるのは限界がある。モーセ自身が限界に達して、「わたし一人では、とてもこの民すべてを背負えません」と主に訴えています(民11:14-15)。
霊的指導や霊的同伴を受け取る器がなかった。助言を受け取って変わることはほぼない。「徳を積め」「祈れ」と言っても、その方は理解できず、むしろそれを言った人に怒りを向ける可能性がある。病や経済的な不安を抱えた人は責められたと感じやすい。
「人のせいにしない」「あなたの捉え方を変えた方が良い」と伝えると、その人は防衛的になり、さらに感情をぶつけてくる。
年齢を重ねると、自分の価値観・自分の生き方・自分の正しさを守るために、他者に説教することがある。努力しているからこそ説教してくることもある。前に進んでいる。こういう「動いている人」を見ると、動けない人は劣等感を感じる。その劣等感を隠すために、「あなたはまだ足りない」と説教することもある。
「価値観の硬直化」 「自己防衛的な固定観念」とは、自分の中に築く心理的防衛・固定観念・自己保存の壁である。自分はこういう人間だ(過去のラベル・他者からの評価)。こうするしかない。変われない。(変化への恐れ)。受け入れられない(自分を守るための硬い殻)。新しい道は怖い(失敗したくない気持ち・新しい環境への不安)。
プロとアマチュアとの違いに、1万時間を超えるのに、要する年月。1日3時間では、10年かかってしまう。では、1日4時間であれば、7年で達成することができます。1日5時間であれば、6年で達成できる。そして、1日6時間であれば、半分の5年で達成することができる。自分をこうして追い込むくらいの気持ちでやっていると言われる。
修道者は毎日三回のお祈りに観想の時間がスケジュールに組み込まれている。普通の日常生活を営み、結婚や仕事をしながらでは難しいため、修道院に入ったと聞いたことがある。使徒職として赴くが、共同生活など決まりはある。
ヨシュアの時代、エジプトの荒野にいたイスラエル人とは違ったシステム、信仰生活が確立されたのであろう。包囲戦が実際に行われたというより、既に破壊されていたエリコの城壁都市記憶、あるいはエリコの多神教とヤハウェ信仰に着目して読むと、解釈が深まる。「エリコを再建しない」(ヨシュ6:26)
私たちの戦いの武器は肉のものではなく、堅固な砦を打ち壊す力がある。(二コリ10:4)は、「砦=心の中の城壁・要塞」を壊すエリコの霊的再解釈である。
エリコに大規模な城壁都市が存在し、激しい火災があったことはテル・エス・スルタンの発掘で確認されている。
ジョン・ガースタング(1930年代)は、倒れた城壁・激しい火災層・穀物の大量残存を発見した。特に穀物が焼けた状態で大量に残っていたことは、「長期籠城ではない・収穫期直後・食料を持ち去らなかった略奪禁止の焼き払い」とヨシュア記の描写と一致する。外側に崩れ落ちた城壁の一部について、通常の攻城戦では城壁は内側へ崩れることが多いため、これを「ヨシュアによるエリコ陥落の跡」と考え、BC1400年頃とした。
1950年代に英国の考古学者キャスリーン・ケニヨンが再調査した。彼女は地層学的手法を用いて、正確な年代測定を試みた。城壁都市は紀元前1550年頃に破壊されたとの結論であった。イスラエル人のカナン入植よりかなり早いため、ヨシュアの時代には既にエリコは廃墟か小村だったとされる。
(近年はブライアント・ウッドらがガースタング説を支持する再検討を行っており、現在も議論は完全には決着していない。)
新約に登場するエリコは、一部のプロテスタント的な「自己責任の霊性」とは違う物語が紡がれる。自分が悪い・自分が悔い改めるべき・徳を積む・祈りで自分を変える自己責任型の霊性がある。
カトリックは、聖霊の働きがある。他者を変えようとしない。祈りは「背負う」ためではなく「手放す」「譲る」ためと教わった。
バルティマイは「盲目の人」というラベルを貼られ、周囲に心を小さくして生きていました。不自由な身体を押して、ようやくイエスの許に辿り着いた。イエスを求めた物乞い(盲人)に対し、周囲は黙るように言った。救いを求めたバルティマイに対し、イエスは立ち止まり、彼を呼び寄せられた。(マルコ10:46–52)
自分は価値がない・迷惑をかけてはいけない・声を上げてはいけないという心の壁にイエスは、「あなたに何をしてほしいのか」と問うた。
抑圧された自己が、自分の欲求を言語化する(自己主張を取り戻す)ことは、心理的回復の一歩である。
エルサレムで出会った生まれつき目が見えない人に対してイエスの弟子たちが尋ねた。(ヨハネ9:1-3)男は感慨極まって震えていただろう。心の中では切々と訴えていただろう。「盲人なのは本人の罪なのか。彼の両親の罪なのか」男は身構えただろう。ユダヤの民を救うと噂される人が応えるのだから。しばらくの沈黙にざわついていた辺りも一瞬、静まりました。救いの言葉は危急を要するものではなかったため、霊性を重んじる神父は言葉の間(ま)の間に沈黙を置く。イエスは皆の思惑を否定して「この者の罪でもない。親の罪でもない」そして男の方へ向かって続けた。静かに揺るぎなく力強く当然のことのように「盲目に生まれついたのはただあなたの上に神の御業が現れるためだ」と答えたのである。
翻訳作業に携わった神父から差別用語には、出版社の対応表を手に入れて言語に忠実に意味合いを残すよう議論をしながら修正を図っていると聞いた。盲人ではなく、「盲目でした」「男(名が不明のため)」はという言い方になっていると聞いた。盲人=その方のすべてを指す、その方を説明する言葉ではないため。
イエスの救いを「奇跡を起こし救った」ことに限定すると、見誤ってしまう。男の心は衰弱しきっていた。死に絶えた心、働きのない人間、他の人たちのように労働し生産に携わることの出来ない身体、穀つぶし、ただ飯食らい。灰色に澱んでとても生きているとは思えないものだった。当時の社会では病気は罪に対する罰だと考えられ、蔑まれた。周囲の者の冷たい仕打ちもあり、白眼視され、決して一人前に扱われず、厄介者として生きていく。
生まれてからただの一度も明るい光を見たこともなく、希望を抱くことも許されなかった。「こんな自分に生きるのに何の意味があるのか。どんな甲斐性があるのか」自ら下す答えは否定的なものであっただろう。責めては自分を追い込む。自分で自分をみじめに思っていたではないだろうか。
この視点から聖書を読んだ時、グリーフケア・心のケア(がんの痛みに対するスピリチュアルケア)を知識、テクニックとして使うのではなく、イエスの心を重ねることができる。
そこにイエスが現れたのです。イエスは同情のためでも慰めのためでもその言葉を語ったのではない。神の愛における人間存在の真実として、その方の全存在が無条件で肯定された。君の存在を支えるのは神その方である、そして君はその御業を証明するために生きているのだ。駄目だ、半端者だと思い込んで今まで影のように生きてきた人生に、イエスは愛の人でした。神の温かな手が触れ、愛が流れ込んだのであろう。何も語らぬ男とイエスの一言。その出会いは、彼の人生全体を包み込むような、深く長い沈黙のうちの霊的同伴であったのだろう。
当時のイスラエルを支配していたのはローマだった。そのため人々から税を取ろうとし、その役割で雇われたのが徴税人。ザアカイは「長官」であった。エリコはヨルダン渓谷の通行税、香油産業の税、農産物の税を取り立てる場所であり、富が集まった。
また、気候が温暖で、王族の避寒地。宮殿・庭園・水路が整備され、ヘロデ大王の冬の宮殿があり、豪奢な裕福都市だった。
民は富裕層を嫌悪し、ユダヤの民は当然ローマのために働くザアカイは軽蔑すべき人間だった。(ルカ19:1–10)
背が低い身体的コンプレックス・「徴税人は裏切り者・罪人」のステレオタイプ、こうした複数のラベルが孤立を深める。自分は受け入れられない・人と関わると傷つく・自分は変われないこのままだ。ユダヤ民族の誇りを捨ててローマの手先となった者「悪人は悪人のまま」の思い込みはザアカイの悔い改めに目を向けなかった。ザアカイは、木に登り、(壁の外へはみ出す)そしてイエスが名を呼ぶ(心の壁を破る出来事)。しかし実際は、イエスを求め、家に招き(自分の心を開く)、財産を返し、貧しい人に施す(変革の実り)決めつけられた人が、最も深い変革をした。「この人もアブラハムの子」(ルカ19:9)
イエスはその場所に来ると、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ、急いで降りて来なさい。今日、あなたの家に泊まることにしている。」(ルカ19:5)
イエスが「今日、あなたの家に泊まる」と言ったとき、ザアカイは自分が価値ある存在として認められたと感じた。ここで砕けたのは、罪・恥・社会的孤立・自己防衛の壁だった。
求道心から見ると生活の手段にしている職業があまり望ましくないと思える時、私たちはどのような気持ちになるか。環境が人を作る。主に交われば朱に交わる。類は類を呼ぶ。そこにはラベリングやステレオタイプが生じやすい。イスラエルの地で職業ゆえに心を小さくしていた人々。当時の社会では全く認められていない、なんの立場もない人たちであった。彼らは何一つ自分に誇るべきものを持ち合わせていなかった「心貧しき人」であった。イエスは「心貧しき人は幸いである」と言われた。それは概念的なものではなく、やむにやまれぬ事情から売春婦、徴税人となった者の外面的な人格の表面的なものより内なる心をイエスはご覧になったのであろう。
グリーフケアにおいて、理性的には解決できない、気持ちのレベルで解決できない時、難しい、正解はないけど、心を寄せ続ける時、イエスとの出会い、聖書に見るイエスの姿を心に聖霊とともにイエスの心を生きたいと願うものである。その自分を妨げる物もエリコの城壁であり、それが外側に崩れた時、神の光、神の愛が心に入っていくのだろう。
良いサマリア人のたとえ(ルカ10:30–37)
「エルサレムからエリコへの道」はトラウマの場面である。暴力・置き去り・無視される体験。見捨てられ体験(abandonment)他者は信用できない・助けは来ない・自分は助けられるに値しない無価値だという心の壁に対し、サマリア人が既存の枠組みを超えて助けることで、「他者は危険」という認知が書き換えられた。サマリア人は、バビロン捕囚時代にユダヤ人と多民族との混血が進んだため、差別されていた。
(心理学的にはこう説明できる。しかし聖書は神の働きとして書く)
キリストは私たちの平和であり、二つのものを一つにする、民族・分断・隔ての壁を取り除く。(エフェ2:14)
神の言葉は生きていて力があり、心の思いと計りごとを見分ける。(ヘブ4:12)
彼らは心を刺されて…聖霊によって。使2章(ペンテコステ)聖霊の心の奥の硬い部分を砕く働き。
「永遠のいのちを得るにはどうしたらいいか」と問いかけた男が自らその自信を満面にあらわして完璧な答えをイエスの前で披露した時、イエスはこう言った。「あなたの言う通りだ。その通り、行いなさい」
君の律法は本当に君の人生の土台となっているのだろうか。行動原理として身に沁みた者になっているのだろうかと問いかけた。
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