相性体力作(そうしょうたいりきさく)という四つのまなざしで観ることについて、話したいと思います。
私たちが「モノ」を見た時、ただ姿形を見ただけでは分かりきれない。性質を知り、内に秘めた力を感じ、その力が世界に及ぼす作用まで見通すことで、はじめて全体像が見えてきます。存在が世界に現れ、モノは単独で存在するのではなく、関係の中で働き、互いに影響を与え合う。

1.体(たい)→本体
父なる神(源・本質)
存在の源、すべてを生み出す本質そのもの、いのちを支える、宇宙全体のすべてを包みこむ。
1. 「わたしはある」──神はまず「在る」存在
 「わたしはある。わたしはあるという者だ。」(出3,14)「わたしはある」と二回強調されています。主体的に神がそこにおられるということです。
実体はまず先にありました。観念は後に人間が作り出したものです。
モーゼが邂逅した存在は、共に在る者の原型、喜びも悲しみも苦しみも対話していくロゴスの原型です。ロゴスは、響いて来るもの、在り方の先立つものであり、父なる神の原型として心の深奥に刻まれているのです。
旧約では「恵み深い神」と共にいることが恵みでした。

2. 聖書の神は証明される対象ではなく、歴史の中で現れる存在
 聖書において「神」はイスラエルを通して歴史のうちに働く神、イエス・キリストの出来事において啓示された神として登場します。聖書を読む時、哲学、体系化、理論ではなく、信仰の目で読むので、神論は不要です。
単一の神理解ではなく、応答で示される神理解です。時代、地域、個人的な相違によって、多様性が見られますが、源の一(いつ)同じ神です。
旧約の神と新約の神は別ではなく、「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神」は、イエスの「天の父なる神」でもあります。

3. 二元論の否定と「悪」の理解
 善の神と悪の神がいるという二元論(カタリ派など)はキリスト教の神はひとつであるから、否定される。
神が愛である以上、悪の神は存在しない。「神は愛である」(ヨハネ)神が悪をつくったのではないことになります。「神は言われた。『光あれ。』こうして、光があった。」(創1,3)
悪とは、人間が本来の姿(神への応答)から離れることであり、自由意志には責任が伴う。

4. 人間の使命と顕現(神の現れ)
 人間は「応答的存在」として、本来の姿(神の似姿)をいかに実践していくことが使命。
神は世界を創造し、恵みによってこれを高められます。
顕現(けんげん)とは、神が人間と世界にご自分を現されることであり、人間と世界の目から覆いが取れると、それまでは見えなかったものが見えるようになる。

5. 絆が失われると虚無になるが、無は恢復の可能性を含む
 神との呼応関係(絆)が見失われた人生は虚無になります。
しかし「無」はまなざしの転回による、まだ知らぬ世界への可能性があり、源に立ち返ることによって、新しい世界の再生を秘めている。
創世記の「光あれ」は、私たちと世界が切り離されることなく、力強く結びついていて、私たちの人生は導かれている確信を抱くにふさわしい。

2. 相(そう)→姿形 入り口
まず、目に見える姿、子(イエス・キリスト)
 触れられる=人々と出会われる、人が理解できる形で神(本質)を現わされ、受肉され、私たちのもとに来られた恵み。イエスとの出会いから始まったものでなければ、神の愛は伝えられません。どんなに良いことをしても、それが喜びに突き動かされたものでなければ、福音ではない。
1. イエスは「見えない神の可視化」であり、父なる神の本性を受け継ぎ、現す存在
 「御子は、見えない神の姿」(コロ1,15)「わたしは道であり、真理であり、命である」(ヨハ14,6a)御父から神の本性(ほんせい)を譲渡された御子ですが、それだけではなく…

2. どんな時でも、神は共におられ、かたわらを歩まれる
 神は良い時ばかりではなく、悲しみや苦しみのとき、困難や逆境のとき、超自然的な恵みを与えてくださる存在。アッバと呼ぶ御子の霊が証明しています。
イエスは言葉をしゃべる以前から、神と共にあり(インマヌエル、ヘブライ語 עִמָּנוּאֵל‎「神と共にいる」)私たちを神につなげてくださいました。
幼いイエスは、せつせつと働く人や病に苦しむ人を見て「アッバ」「アッバ」と腹のそこから祈られ、悲しみも痛みも苦しみを父なる神に届ける存在であった。
洗礼者ヨハネの洗礼で「私の愛する子、わたしの心に適う者」という声が天から響いたのは、イエスが父なる神と共におられた証。

 

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3. 神の御業は奇跡に限定されない
 父なる神があなたを生かしておられる、その神の御業を証明するためにあなたは生きているのだ。イエスは当然のことのように盲目の男の存在を全面的に認めたのです。
奇跡だけを神の御業として語れば、救いは普遍的ではなくなる。
むしろ、イエスの受難を通して弟子たちの内部に変化が起こり、イエスの存在を本当に感じるようになった。

4. 神様の計らいに想いを重ねる
 イエスは人間として苦しまれたからこそ、苦しむ者に寄り添い、艱難汝玉とす。「事実、御自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練を受けている人たちを助けることがおできになるのです。」(ヘブ2,18)
盲人の男に「よく頑張ってきましたね」と手を差し伸べられたイエスの姿に、神の優しさを見ることができる。

3. 性(しょう)→「性質」
次に、聖霊に宿る性質は、人の心の奥深くに触れるはたらきをもつ。心が変わる奇跡
1.痛みを通してつながる絆
 初代教会の迫害の時、殉教の祈りは、イエスの受難を媒介として、十字架のイエスと合一するためでした。何も悪いことをしたわけでもなく、信仰ゆえに命を失わなければならなかった。理不尽さそのもの、時代に翻弄される人間の無力さ、悲しさに、イエスの純粋な怒り、哀しみを知り、具体的な状況に身を投じなければいけない。「イエスの痛みが自分の痛みになる」深い潜入をした時、思うにままならない現実の中でそれでも生かされている摂理、神の力、福音との出会いがあることをかみしめたのであろう。

2.「あなたは大事だ」と言われると生きる力が湧く
 聖霊はどこまでも愛し続ける。慈悲と愛の奔流の中、人間の存在を「はい」と肯定し、心を深く癒し、神とつながる。人や世界を信じることができるようになる。

3.人間は神の似姿(にせすがた)であり、神に愛されている者である
 聖霊は、人間の本来性(imago Dei)を照らし出す光である。
人間は不完全であっても神を知り、神を愛している限り、恩寵の光に照らされます。
アウグスティヌス(古代キリスト教の神学者)の「あなたのところに行くまで安らぎがない」
聖霊は、内なる心の神への志向性を呼び起こす。「うたかた(泡沫)のかりそめの世にこのまま埋もれたくない」という疼きが、忘却の彼方に沈んだ自己を、使命、天職を探し求めようとする、深奥では超越者との対話を望んでいるのです。
信仰の父と称えられるアブラハム(イスラエル民族の祖)は、国や子孫の繁栄を約束されながら、放浪の旅を続け、御一人子イサクさえ捧げなければなりませんでした。
「約束されたものを手に入れませんでしたが、はるかにそれを見て喜びの声をあげ、自分たちが地上ではよそ者であり、仮住まいの者であることを公に言い表したのです。このように言う人たちは、自分が故郷を探し求めていることを明らかに表しているのです。彼らは更にまさった故郷、すなわち天の故郷を熱望していたのです。」(ヘブ11,13-16a)
これは人間の深奥にある「魂の故郷」の記憶。

4. 力(りき)→可能性、エネルギー
世界に働きかける、実現させる潜在的な力
ローマの支配下にあり、アイデンティティーを見失い、苦しむ民を救う、形骸化されたモーゼの律法に新しい命を吹き込み、完成させるため、それまでになかった概念、神の愛を伝えるためにイスラエルに、私たちのもとに来られたが、未熟な人間の思惑により、十字架に倒れた。雲散霧消でなく、弟子たちを結束させるために、聖霊が働いた。そして、2千年以上も福音、喜びのメッセージが伝えられている。

 

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1.聖霊は、閉ざされた心を開き、使命へと押し出すエネルギー
 初代教会の柱であったペトロも罪を犯した弱き弟子でした。ユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた(ヨハ20,19)が、聖霊が下り、(降臨祭)戸を開き、ペトロは外に出て説教を始めました。イエスはペトロに「わたしを愛しているか」と聞き、「わたしの羊を飼いなさい」(ヨハ21,17b)と言われました。

2.聖霊は、歴史、時空を超えてイエスの姿を現在に呼び覚ます力
 イエスに会ったこともないのに、伝道に一生を捧げたパウロや修道士たちがいます。彼らはイエスを証したかった、イエスの遺志を後世に伝承していったのです。
イエスは十字架で死んだのではない。イエスは生き続けている。

3.信仰の危機の中で限りない深み、霊性が花開いた
 救える人には洗礼を授け、神の子とし、永遠の生命の保証を与える。イエスをメシアと信じないユダヤ教にとっては、欺瞞なのか。福音拒否に対し、すべての人に共通する普遍的な真理を説こうとしました。初代教会は聖霊の導きという輝かしい面だけでなく、信仰を証す重い問いかけと共に歩んだのです。初代教会はユダヤ教による迫害の中で離散したユダヤ人、異邦人へと門戸を開いた。試練にあっても共同体を成熟させる。いくら、聖霊が主要的な働き手といえども、祈り、心を尽くし、知恵を使ったから道が開かれたのです。

5. 作(さく)→作用
 そして、「三つが一つとして働く場」作(作用)は、体・相・性・力が一つになって世界に現れるはたらきです。
三つの位格(父・子・聖霊)は別々ではなく、関係として一つ。父なる神は愛する子イエスを通してご自分、神の愛、アガペーを体現し、御子はアッバと親しい関係、直通電話状態で、聖霊は父なる神と御子の神の愛、神の働きを世界にもたらし、広げる。三つは「点」ではなく、「一つの本質」を共有する、関係の網の目の中で立ち上がる。存在の現れ方の多面性を示しています。
 性・力・作(聖霊)は三層に分かれているが、一つの流れです。
内側の性質→神に愛されている者としての人間の本来性、霊性が照らされる。
潜在的エネルギー→目覚め、使命へと押し出される。初代教会を導いた、福音の成り立ちにも聖霊の力があった。
外側への作用→神のみこころが人と人との間、共同体、歴史の出来事、それぞれの場で形になる具現化、可視化。
この三つは、まるで「根・幹・枝葉」のように一つのエッサイの木のようにつながっています。

1.祈りが共同体を強め、絆を深める。
 兄弟を忘れない小さきキリストたち 。痛みを孤立ではなく、連帯に変える。切磋琢磨し、支え合い、成長し合える関係を創造する。みこころが地にも行われますように…
砕かれた心に差し込む光、弱さ、痛み、闇の中にこそ、深く届く。
神の子とは「応えた人」のことです。人の子よ、砕かれよ。見えないと言って、御手を拒み、聞こえないと言って、その声をふさぐ。そんな深い闇と哀しみを抱える人間(エフェ2,12)を神は愛の光をもって、ずっと待ち続けられる。

2.ブーバーの「我と汝」の「汝」との関係、根源語(絆)を可能にする。
 取引ではない協力者がいることは奇跡。出会いは人には作れない。
手を取り合ってお互いのために信仰に至る兄弟の存在があれば、感謝しても言葉には尽くせない出会いです。支えてくれた人、一緒に歩いてくれた人、一人一人が心の中に浮かぶ時、人間は独りで生き、独りで人間になることはできない、自らが生かされている事実を自然に受けとめることができます。

3.人間は神の「友」となり、「共同創造者」となる。
 神は人間を愛されるばかりか、人間から愛の姿をも望まれる。神に向かうことに人間の幸せがあり、人間の本性(ほんせい)とは、救われた者です。
永遠の生命にして何を得るのか。永遠でないものに執着するな、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」(ルカ9,23)

 

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 恵みとは、キリストの生命に生き、生かされること。恵みの働きは信仰によって明らかにされますが、信仰とは聖霊が顕現(けんげん)する恵みでもあります。
「まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカ11,9-13)
キリスト教の神、生き生きとした教会とは、イエスの生を喜んで内に外に生きること。聖人の特長は、内から溢れる喜びであります。自分を愚かだと罪深いと自覚すると、落ち込んで元気がなくなるのではないか。でも、いっそう、神様を身近に感じて元気になります。必ず希望、神のみ旨はあるのだ、導かれていると思えるようになるからです。