今週は、骨董や郷土玩具にまつわる、やや理屈っぽい話をしていこうかと思います。
昨日の靖国神社の骨董市で、出会った尾形月耕の「美人画」で、中里介山の「大菩薩峠」の話をしましたが、やや舌足らずの話になっていました。「大菩薩峠」の挿絵を描いていたのは井川洗崖でした。洗崖は岐阜の出身で1876年生まれといいますから、明治9年生まれになります。浮世絵師の富岡永洗に弟子入りし、明治39年に「大菩薩峠」を連載する「都新聞」に入社し、介山と出会い、「大菩薩峠」の挿絵を描くようになります。
さて、尾形月耕は、洗崖よりは年上です。安政6年、1859年生まれですから、洗崖よりも17歳、年上です。しかも江戸の生まれ育ちです。生家は名鏡家、葛飾の大地主で、大名家や豪商で働く人々を斡旋する口入屋、いまでいえば人材派遣業でしょうか、さらには塵芥取集の利権を握っていました。塵芥というのはゴミ拾いでしょう、今でいえば、リサイクル屋さんでしょうか。江戸時代はリサイクル社会で、塵芥には糞尿なども含まれていたのではないでしょうか。それは葛飾など江戸郊外の農業の肥料にもなったかと思いますし、そこまで想像を広げなくても、江戸には数多くにゴミ拾いがいて、生活が成り立っていたのは、江戸時代に詳しい方ならば、ご承知の話かもしれません。今も昔も人がやりたがらない商売は、儲けもおおきいかと思います。つまりは、無数にいるゴミ拾いの総元締めが尾形月耕の生家でした。したがって、恵まれた生活を送っていたと思います。ところが、月耕が17歳のとき、父親が死亡、生家も没落します。絵は父親のすすめで幼いときから学んでいたようです。生家が没落したあとは、提灯屋を営んだり、絵草子屋に自分の絵を売り込んだり、吉原の絵や人力車を彩る蒔絵、輸出用の陶器の下絵など、精力的に画技を磨きます。
明治14年には、琳派の系統・尾形光哉の家姓を世襲します。なかなかの野心家だったと思います。そして、浮世絵師として、さらには新聞の挿絵画家として、明治20年代には水野年万とともに、二大双璧と言われるまでになります。美人画も得意でしたが、歴史画も得意としたようです。
このブログで小林清親のことを書きましたが、彼は御家人の出。弘化4年、1847年の生まれですから、月耕とは12歳違いです。明治になっても、江戸の名残が色濃く残っていた時代に、御家人と豪商の出という違いはありますが、江戸のことを知り尽くした彼らが浮世絵師として活躍したことになります。
もちろん、このころにはすでに写真の技術は入ってきていました。しかし、新聞の連載小説が描く時代は旧幕時代や江戸以前の時代小説です。そこに洗崖や月耕などの浮世絵師が活躍する場所があったのでしょうか。
話はとびますが、スティーブ・ジョブスが愛したといわれる川瀬巴水は、洗崖や月耕、清親よりはかなり年下になります。明治16年、1883年生まれですから、旧幕時代の思い出はあまりなかったのではないでしょうか。彼は清親なども研究したようですが。年齢的には、清親とは親子ほど違います。つまり一世代あとになります。浮世絵的なものに行き詰まり、日本各地を旅する中で、風景画で名品を残してくれました。
「美人画」といえば、川瀬巴水とほぼ同時代の生まれ、明治20年、1887年生まれの小村雪岱も忘れられませんね。川越の生まれですが、14,15歳といいますから、明治30年代には神田に移り住んでいます。
以上に述べてきた人たちは、巴水以外は新聞の挿絵画家として活躍しています。しかも出発点は、すべて江戸の浮世絵です。浮世絵は、江戸時代には、浮世絵そのものも庶民の楽しみだったかと思いますが、その一方で絵草子や瓦版が、その発表の場だったのではないでしょうか。
それが、明治のご一新で、新聞を読むことがが人々の娯楽になり、その中でも連載小説が新聞の売れ行きを左右し、それをいろどる挿絵が、浮世絵の影響を受けていたというのは面白いと思います。
私の手元に杉浦非水の絵もあるので、彼のことも書きたいのですが、彼が活躍したのは大正時代、都市部の中間層が成熟し、百貨店や帝劇で消費生活を楽しむ時代に商業デザインの先駆者となりましたが、世代的には、日本の美術教育の中で育ってきた人かと思います。浮世絵の影響は、非水あたりの世代で途絶えるかと思います。
月耕の絵から、以上のようなことを妄想しました。
如庵