教育は何のためにあるのか、何のために受けるのか。
幼年期、児童期、青年期と通じて、「教育」とは「学校」であり「授業」であり「勉強」であった。
それは生活の一部としてごく当たり前にあるもので、あまりにも当たり前にあるので。
「教育とは」なんて考えもしなかった。
勉強の目的は「テスト」であり「受験」だった。
その背後には「親の目」があり、「教師の目」があり、「大人の目」があった。
「テスト」や「受験」をとりあえずやり過ごすことが先決で「教育とは」なんて考えやしなかった。
また、誰も教えてくれなかったのではないだろうか?
親は当然のこと、先生だって・・・
「どうして勉強が大切か、教育とは何か」
なんて教えてくれなかったのではないだろうか・・・。
教えてくれなかったのは教える必要がなかったからだろうか?
それとも教えることが出来なったのだろうか?
さてさて。
今の私ならこう応えよう。
「教育とは自身の生き方を全うするための原理原則を確立するためにある」
「原理原則」
簡単に言うと…
「自分らしく生きるための価値観」
だ。
私たちは生きていく中で様々な選択を迫られる。
「右に行くのか左に行くのかどっちだ」
と。
その決断を下すための最後のよりどころがここでいう「原理原則」だ。
もし、私が、もし貴方が。
今の状況に不満があるのならもう一度自分のなかの「原理原則」を見つめなおすときだ。
それは自身の内なる声との対話といっても良いのかもしれない。
もし、私が、もし貴方が。
今の状況に途方に暮れているならもう一度自分の「原理原則」を鍛えなおすときだ。
それが学びたいということだ。
教育者とは子どもの学びたいという気持ちを引き出し、学びたいという気持ちに応え、その子ども自身の原理原則を確立させてやることが出来る者のことだ。
もし教育者自身の原理原則を子どもに押し付け、子ども自身の原理原則を潰すのであれば、それはもう教育とは呼べない。
