いじめは文化なのか。
文化ゆえ無くならないのか。
そんなことをふと考えます。
近代前の日本は「農村社会」でした。
徳川幕府がその社会を「士農工商」という身分制度で固定させました。
「農村」という共同体を維持し守るための仕組みとして「いじめ」が有効に働いたそうです。
「村八分」などがその典型的な例ですね。
葬儀と火事その「二分」だけは共同体のなかで手助けをするがそれ以外は、完全に縁を切られます。
縁を切られたくなければ、共同体の倫理から外れるなという暗黙の脅しがそこにはあります。
そしてここでいう共同体の倫理とは「農」としての身分を固定化させるための為政者の倫理です。
農の人々は為政者からの圧力を、「村八分者」をはけ口にすることで解消していたのですね。
人間の性をどこか薄ら寒く、そして悲しいものとして浮き立たせる歴史です。
今日の全国紙には毎日・日経・読売・朝日で「いじめ」に関する記事が掲載されていました。
そのなかで読売の「いじめ克服 思想の挑戦」が新たな視点を示唆してくれたように思います。
記事中に「優しい関係」という言葉が出てきます。
社会学者の土井隆義氏の「いじめ」の捉えです。
氏曰く。
今どきの子どもたち友人との対立を避けるために実に繊細な仲間関係を築いている。
他者の反感を買わないように、学校では常に神経を張り詰めていなければならない。
その緊張感を解消してくれるものが「いじめ」だ。
いじめの被害者に互いの眼差しを焦点化させることで、互いの対立軸の顕在化が避けられるから。
と・・・。
どこか「村八分」とかぶる印象を受けました。
しかし、子どもたちがその背後に感じている「圧力」が何であるのかが見えてきません。
その「圧力」の背景を読み解くことが先決なのかもしれません。
「いじめ=悪」「いじめをやめよう」
「子どもたちはそんなことはわかっている。そのうえでいじめる側に回って安心する」とは記事中の重松清氏の言葉です。
中国には「いじめ」という言葉の概念自体が無いそうです。
「いじめ」「苛め」「虐め」
どれも日本固有の当て字だそうです。
日本は「いじめ」という文化があります。
そんな日本は嫌ですよ。
子どもたちを捉える「圧力」。
書きながら考えていましたがまだ見えてきません。
