昼下がりの銀行ロビー。
年金の手続きなのか、住宅ローンの相談なのか、誰もがどこか疲れた顔をしている。

銀行という場所には、独特の静けさがある。

その空気の中で、時折、場違いなほど若い存在が目に入ることがある。制服姿の女子高生だ。

 

振込を頼まれたのか、通帳記入に来たのか、理由は分からない。ただ、その瞬間だけロビーの空気が少し変わる。

 

男性たちの視線が、無意識にそちらへ向かう。
もちろん露骨ではない。じっと見つめるわけでもない。新聞をめくるふりをしながら、スマホから目を上げながら、一瞬だけ視界の端で確認する。そんな程度である。

 

では、なぜ視線は向かうのか。

単純に「若さ」への反応なのだと思う。
人間は、若さや生命力に自然と目を引かれる。花が咲いていれば見てしまうし、夕焼けが綺麗なら足を止める。それと同じ種類の、本能に近い反応なのかもしれない。

特に中年以降の男性にとって、制服姿の高校生は「過ぎ去った時間」の象徴でもある。
 

自分が学生だった頃。未来だけが無限に広がっていた時代。失敗してもやり直せると思っていた頃。そんな記憶が、一瞬だけ脳裏をよぎる。

だから視線の中には、異性としての関心だけではなく、郷愁も混じっている。
「あの頃、自分も若かったな」
「娘もこのくらいの年齢だった」
「もう二度と戻れない時間だ」
そんな感情が、本人も気づかぬうちに交差している。

もっとも、視線には節度が必要である。
 

銀行という公共空間では、相手に不快感を与えない距離感が大切だ。無意識の視線と、相手を不安にさせる視線はまったく別物である。

最近は「見ること」そのものに敏感な時代になった。
確かに行き過ぎた視線は問題だ。しかし一方で、人間が何かに目を奪われるという現象自体は、完全には消せない。本能や感情まで機械のように制御することは難しい。

銀行ロビーで見かける、ほんの数秒の光景。
そこには欲望だけではなく、老いへの自覚や、失われた時間への感傷まで混じっているように思う。

番号表示機の電子音が鳴る。
男性たちは何事もなかったように立ち上がり、再び日常へ戻っていく。