『風林火山 第7回』のあらすじ・感想 | まんが栄養素

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ということで、

 

新大河ドラマ『風林火山』

NHK出版
風林火山 (前編)

 

の7回目『晴信初陣』を見ました。

風林火山の全ての過去記事はこちら → 風林火山の感想

 

山本勘助(内野聖陽)は北条氏康(松井誠)に酒の席に呼ばれる。

勘助が氏康の酒をつごうとすると、氏康は朝以外は酒を飲まないと言い、サザエを取り出す。

サザエを例えに出し、よく知らないものをすぐに家来には出来ないということを遠回しに言う。

 

氏康 「人を信用できぬものは己の欲にしがみつく者じゃ」

勘助 「恐れながらそれがし、欲などありませぬ」

氏康 「恨みもまた人の欲に過ぎん」

勘助 「!!」

氏康 「己がしがみつく欲じゃ。 欲にしがみつく者はまた平然と人に媚をうつものじゃ」

    「根も葉もない噂を信じ、わしに取り入ろうとしたのもそのためじゃ」

    「欲に目が眩めば真の敵は見えんぞ。 戦は欲を満たすためにするものではない」

    「国を守るため・・・作るためにするものじゃ」

勘助 「恐れながら、それは恵まれた者の言う言葉でございます」

    「それがしとは境遇が違います」

氏康 「されどそなたも、荒ぶる世に乗り出す機会は同じであろう」

    「見た目は悪くても、食してみれば上手いのかもしれん」

    「なれど、今のそなたを食す気になれん」

 

と、氏康は今この時点で、勘助を家来として受け入れることはせずに、

勘助を間者として他国に放ち、世界の現状を調べ上げ、その答えを見つけ、

もしその答えが北条にあるならば、そのときに召抱えようと勘助に言い立ち去っていく。

 

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場面が変わり、甲斐・武田屋敷。

武田晴信(市川亀治郎)は相変わらず書物を読む毎日を送っているようで、

三条夫人(池脇千鶴)の女中・萩乃(浅田美代子)は心配になり、

晴信の近習・駒井政武(高橋一生)を追いかけ、信虎が晴信を遠ざけている理由を聞こうとする。

駒井は『知らぬ存ぜぬ』を貫くも、そこに飯富虎昌(金田明夫)がやってきてしまい、

荻乃はその飯富虎昌に追求すると、飯富虎昌は近々初陣があるので心配するなと言う。

 

それから数日後、

武田信虎(仲代達矢)は、板垣信方(千葉真一)・甘利虎泰(竜雷太)・小山田信有(田辺誠一)ら、

重臣を集め、冬に信濃攻めを開始することを決定する。

また、今回の戦で、板垣に『晴信の初陣』をすることを伝える。

 

その板垣は、晴信と三条夫人に初陣を伝えに行く。

板垣の『冬に攻め入る』という言葉に、晴信は少し不満げであったが言葉には出さず。

 

 

その頃、山本勘助(内野聖陽)は信濃の国・小県郡にいた。

山伏のような格好をして歩いていると、馬が暴走して走っている現場に立ち会う。

なんと、その暴走した馬に乗っていたのは、葛笠村の平蔵(佐藤隆太)で久しぶりの再会であった。

勘助はその馬を乗りこなし馬を渡そうとすると、真田幸隆(佐々木蔵之介)が登場する。

ちなみに、この真田幸隆はあの『真田日本一の兵』の真田幸村のお祖父さんであたる人である。

真田幸隆は、勘助を山伏ではなく間者と見抜き、殺そうとする。

その行動に一切驚かない勘助の姿を見た真田幸隆は、間者ではなく浪人と見たようで、

自分の屋敷に勘助を向かい入れる。

 

真田幸隆(佐々木蔵之介)とその妻・忍芽(清水美砂)の接待を受け、

近々、武田との戦が始まることを話し、真田幸隆は勘助を食客として向かい入れてくれる。

また、勘助の内情は平蔵から詳しく聞いているようだ。

 

真田 「武田にまだ恨みがあらば、この真田に力を預けぬか?」

勘助 「それがしの恨みを欲しいと仰せになられますか?」

真田 「恨みは人を戦場で強くする、足元をすくうのも恨みじゃ」

    「ようは、使いこなすことが慣用なのじゃ」

勘助 「面白きお人でありますことよ」

 

又、勘助は平蔵と久しぶりに話し合う。

平蔵は、ミツ(貫地谷しほり)の敵を討つために武士になるためにがんばっているようだ。

 

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場面は変わり、武田屋敷。

武田信虎(仲代達矢)と三条夫人(池脇千鶴)の会話がスタート。

三条夫人は、「寂しいのでは?」と問いかけ、晴信との関係を聞こうとする。

信虎は本当に晴信を嫌っているようで、三条夫人は一生懸命弁解する。

信虎は、以前の馬の一件で、「馬が欲しいというのではなく、馬乗りを習いたい」と

言って欲しかったと三条夫人に言う。

 

その言葉をそのまま、三条夫人は武田晴信(市川亀治郎)に伝える。

晴信はその信虎の言葉を疑うが、三条夫人は晴信を説得する。

考え込む晴信がアップで映る。

 

 

その頃、勘助。

勘助は、槍の練習をしていると、そこに真田幸隆の妻・忍芽(清水美砂)が現われ、服を戴き驚く。

勘助は何故自分にこれほど優しくしてくれるのか、疑問に持ち聞いてみると、

「幸隆は人を見抜くこと、人の目利きは誰よりも優れているから」という忍芽の言葉に、

今まで、振られ続けてきた勘助は感動する。

 

同時刻、武田屋敷。

武田信虎(仲代達矢)・大井夫人(風吹ジュン)の酒の席に、武田晴信(市川亀治郎)が現る。

晴信は三条夫人の言葉通り「馬を習いたい」と言うと、

信虎は馬は弟・次郎(園部豪太)にあげているので、無理だと嫌味ぽく言う。

信虎は、三条夫人を使って自分のことを調べさせようとしたこと(誤解だけど)に嫌悪を示していたようで、

「ついに本性を表したな!!」と晴信を罠に掛けたことを言う。

晴信はその仕打ちに腹を立て、

 

晴信 「父上、そこまで・・そこまでそれがしの思いをお判りいただけませぬか」

    「かなしゅうございまする」

    「・・・・・判り申した」

 

晴信はその場から立ち上がり、

 

晴信 「お判りいただけぬとあらば、それがしの思いをご覧にいれます」

    「此度の戦、立派に果たしてご覧にいれます」

    「覚悟めされませ!!」

 

晴信は立ち去ろうとすると、信虎に呼び止められる。

信虎は「申し開きをするか」・「許しを請え」と叫びながら言うも、

晴信は一礼をしただけで、その場から立ち去る。

その晴信は今回の出来事を三条夫人に心配させぬように、本当のことは言わなかった。

 

そして、晴信は初陣を迎える。

 

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その頃、勘助。

真田幸隆(佐々木蔵之介)は昔、戦があった場所に連れて行き、

勘助に「もし勘助ならば、どのような戦術を取るのか?」と尋ねると、

真田幸隆が取った方法と全く同じ方法を言った様で、幸隆は勘助の才能に絶賛する。

すると、そこに家来の春原若狭守(木村栄)が武田が攻めてきたと知らせにくる。

 

武田は平賀源心(菅田俊)のところに攻めてきたようで、

勘助は真田幸隆の使いとなって、平蔵と共に平賀源心のところに行くことになった。

 

次回へ続く。

 

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真田幸隆

信濃の在地領主で、甲斐国の戦国大名、武田氏の家臣。幼名を小太郎、弾正忠。後に剃髪して一徳斎と号す。系図上では「幸隆」と記されるが、史料においては幸綱と記され、また子に“隆”を通字とする者がまったく居ない事などから、近年ではこちらを正しい名乗りであり、晩年に「幸隆」と改めたと考えられている。

 

天文10年(1541年)、信濃へ進出した武田信虎は諏訪氏や村上義清と共に小県郡へ侵攻、5月の海野平合戦により海野一族は駆逐され、箕輪城主長野業正を頼って上野国に逃れる。海野棟綱は関東管領・上杉憲政の力で旧領の回復を図っていたが、天文15年4月に憲政は後北条氏に敗北している。武田氏では天文10年(1541年)に武田晴信(信玄)が実父信虎を国外追放して家督を継いでおり、佐久郡、小県郡へ侵攻していた。帰属時期は諸説あるが、幸隆は武田へ臣従して旧領回復を図っており、『甲陽軍鑑』に拠れば天文17年(1548年)の上田原の戦いに板垣信方の脇備として参戦している。『高白斎記』に拠れば、幸隆は調略を用いて村上方の望月氏を武田方に臣従させたという。

武田氏臣従後は信濃先方衆として活躍。信濃国制圧に尽力し、小県郡諏訪に知行を約束されている。天文19年(1550年)8月の戸石城攻めは幸隆の要請にもよるものと言われる。戸石城攻略は「戸石崩れ」と呼ばれる大敗で失敗するが、『高白斎記』に拠れば翌天文20年には幸隆の謀略により村上勢は切り崩され、攻略されたという。天文22年(1553年)に村上義清は駆逐されて越後へ逃れ、旧領を回復する。幸隆は本拠を松尾古城から松尾本城へ移し、戸石城番を兼ねる。

村上義清は越後上杉氏を頼り川中島の戦いがはじまると、その最前線に置かれる。本弘治2年(1556年)には埴科郡東天飾城を攻略し、城番を務める。永禄2年(1559年)に晴信が出家して信玄と名乗ると、自身も剃髪して一徳斎と号す。永禄4年、越後上杉氏との第四次川中島の戦いでは、妻女山の上杉本陣への夜襲に加わっていたという。

川中島合戦ののち武田は西上野侵攻を開始するが、天文23年の甲相駿三国同盟成立後には、上野へ侵攻する上杉に対して北条氏康から幸隆に出兵要請がされており、幸隆は関東方面の戦略に関わっていたと考えられている。武田氏に提訴されていた吾妻郡内での鎌原氏と羽尾氏の所領抗争は、双方が真田の同族でもあり、幸隆が調停に関わっている。永禄6年には羽尾氏を支援した上杉方の斎藤氏の居城岩櫃城を、永禄8年には獄山城を、永禄10年には白井城を攻略している。近年の柴辻氏らの研究によると、嫡男信綱と共に、武田氏の上野攻略の拠点・箕輪城代であった時期もあるようである。これは譜代衆並みの扱いである。 また、この頃には家督を信綱に譲り隠居していると思われ、駿河侵攻や上洛軍には加わらず、専ら信濃北部及び上州方面の抑えとして活動した。天正2年(1574年)5月19日、戸石城で病死。享年62。

幸隆の智略と功績は晴信に高く評価され、外様衆でありながら譜代家臣と同等の待遇を受け、甲府に屋敷を構えた。武田家中でも一目置かれていたと言われ「攻め弾正」の異名で呼ばれた。

 

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【感想】

今回はやはり、信虎と晴信の攻防。

嫌味を前面に出している信虎に、誠実な優しい晴信。

信虎の「申し開きをするか」・「許しを請え」という言葉に対し、

一礼だけして立ち去った晴信の姿は、今回の話で一番お気に入りシーンです(^^ゞ。

だんだんと、武田信玄に近づいていっているようですね。
 

 

では、ここまで。

 

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