ということで、
新大河ドラマ『功名が辻』
の38回目を見ました。
関白を迎えに行く山内一豊(上川隆也)と、それを見送る千代(仲間由紀恵)。
関白秀次を迎えに行くと、一豊は関白家臣に殺されるかもしれないので、伏見に行くよう言う。
場面は豊臣秀次(成宮寛貴)が住む場所に移り、
案の定、不破万作(浅利陽介)と前野景定(瀬川亮)と木村常陸介(前田淳)は、
一豊のクビを捕ろうとし、それを抑える事ができない秀次が描かれる。
同時刻に、千代は祖父江新右衛門(前田吟)・五藤吉蔵(小倉久寛)・拾(泉澤祐希)などと、
伏見に行く予定だったが、千代の草履の緒が切れてしまい一豊の虫の知らせているよう。
不安に思った千代は伏見に行くのではなく、一豊のいる京を目指すことになる。
さらに同時刻、山内一豊(上川隆也)・祖父江新一郎(浜田学)が秀次を待っていると、
不破万作(浅利陽介)と前野景定(瀬川亮)と木村常陸介(前田淳)などが隠れて、
自分達のクビを狙っていることに気付き、そしてそこに秀次がやってくる。
一豊は秀次に秀吉に対し申し開きをするように言う。
秀次は、その一豊の言葉に理解を示し一豊に数日待つように言うが、一豊はすぐに否定する。
そこに秀次家臣団がなだれ込み、一豊・新一郎を囲む。
秀次は「行って申し開きをすれば救われるのか?」と問うが、一豊は「判らない」と答える。
そこに、何故か千代が登場し秀次に出家を促すが、秀次家臣団に殺されそうになる。
その千代の言葉に一豊が「そのことは意味が無い」と言い、そして家臣団はさらに怒る。
その言葉を聞いた秀次は観念したのか伏見に訪れることを決める。
秀次は千代の言葉を思い出し、秀次は「最後の勤め」を果たすと言い決意の表情となる。
なかなかの良い演技です。
----------
一豊は秀次を連れて、豊臣秀吉(柄本あきら)の下へ。
「来るのが遅い」という秀吉に、秀次は秀吉に対し関白の最後の仕事をしたいと言う。
秀次 「関白として太閤殿下に申し上げます」
「唐入りの兵を一日も早くお引きなさいませ」
「唐入りに蓄えをつぎ込み、諸大名とその領民を疲弊せしめ、
「さらには政に意味無き金殿玉露を伏見の国に築城した行い、・・・・言語道断!」
「天下は天下のための天下。 太閤殿下だけのものではございませぬ」
その言葉に怒りを込めつつも冷静に高野山に幽閉することを命令する秀吉。
そのまま許されること無く、切腹する関白・秀次。
このことが本当に事実ならば、相当秀次は有能な武将だったのでしょうね。
優秀すぎて、秀吉が恐れていたのかも・・・。
とはいえ、殺生関白とは言われていましたので、真意は判りませんが・・・。
場面は変わり、一豊・堀尾茂助(生瀬勝久)・中村一氏(田村淳)は、
捕まっている前野将右衛門(石倉三郎)のところを訪れて、申し開きしないことを聞く。
前野将右衛門は、年だし嫁も死んだし、このまませがれと死んだほうが良いと・・・。
その前野将右衛門は、幽閉されている前野景定(瀬川亮)のところへ行き、
最後の別れを言い、そのままこの親子は切腹をすることとなった。
秀頼を見る、豊臣秀吉(柄本あきら)・淀君(永作博美)。
淀君は、いずれ秀頼に災いをもたらすから、秀次の家・一族を全て失くしてくれと頼む。
秀吉はその言葉に疑うことなくあっさりと秀次一族39人を成敗する。
----------
話は山内家に戻り、千代(仲間由紀恵)・拾(泉澤祐希)・六平太(香川照之)が登場。
ここからは、拾(泉澤祐希)と山内家跡目問題が中心となる。
一豊と千代の会話が始まり、そこに拾が現われ稽古を付けてくれと言う。
一豊は息子のこの言動を嬉しく思ったのか、拾を跡継ぎにするとつぶやく。
その言葉に嬉しがる千代。
拾との稽古が始まり、「槍が仕えてこそ山内家の男じゃ!」という言葉に、
老臣・祖父江新右衛門(前田吟)は「なんでやねん!」みたいな顔をする(笑)。
場面が掛川城に移り、山内康豊(玉木宏)の下に、祖父江新一郎(浜田学)が現われ、
拾を跡継ぎにしそうな雰囲気を、何とか康豊の息子を跡継ぎにするよう一豊に言ってくれと。
さすがに家臣団の分裂を感じたのか、康豊は答える事ができなかった。
同時刻、五藤吉蔵(小倉久寛)と祖父江新右衛門(前田吟)の会話が始まり、
拾が跡継ぎになることに悲観的な祖父江新右衛門は何とか五藤吉蔵を取り込もうとするが、
吉蔵は拾が跡継ぎになることを望む。 考え込む祖父江新右衛門。
そういうやり取りのすえ、千代に対し強攻策(笑)を考えた祖父江新右衛門(前田吟)は、
「五藤吉兵衛(武田鉄也)が枕元に立ち、跡目問題のことを案じている」
と嘘をつき、その言葉に動揺する千代。
千代は、一豊・拾の親子の平和なやり取りを見て、考え込む。
千代は覚悟を決め、拾を跡継ぎにすることを止めてくれと言う。
千代は山内家も内部分裂が起こっている豊臣家のようになることを恐れ、
その言葉を聞いた一豊も考え込む。
数日後、覚悟を決めた一豊・千代は稽古をつける拾を座敷に呼ぶ。
一豊は息子である拾に自分が殺してきた人々を供養して貰いたい、つまり出家してくれと言う。
その言葉を言われた拾は、自分の微妙な立場をすでに知っていたようで、
「千代に捨て子だから武士にはなれないのか」と問う。
千代は拾の手を取り涙を流しながらはっきりと判りやすく、跡目問題を説明する。
拾 「父上の御下命とあらば従います。 されどそうでなければ嫌でございまする」
一豊 「父の・・・命である」
千代 「・・・・」
拾 「・・・・かしこまりました」
3人共に涙を流し、立ち去ろうとする拾を抱きしめる千代。
なかなかの名演技で涙を誘うシーンであった。
次の日(?)、拾が仏門に入るべく、山内家を去るシーン。
一豊は手ぬぐいを拾に付け、「わが子である」、と言う。
そのまま拾は振り返ろうとせずに屋敷を後にする。
涙と拾への想いを捨てきれない千代は叫び、次回へつづく。
-------------------------------------------------------
山内 忠義
土佐藩の第二代藩主。山内康豊の長男で、伯父の山内一豊の養嗣子。
文禄元年(1592年)、掛川城にて生まれた。一豊に嗣子ができなかったため、慶長8年(1603年)にその養嗣子となり、徳川家康・秀忠に拝謁する。このとき、家康から松平姓を下賜された。同10年(1605年)の一豊の死後、家督を相続する。しかし幼少のため、実父の康豊の補佐を受けた。
慶長15年(1610年)、居城の河内山城の名を高知城と改名した。これは、城に接している鏡川の洪水に度々悩まされて、水害を忌んだためと言われている。
慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では、徳川方に味方して参戦した。慶長20年(1615年)の大坂夏の陣では、暴風雨のために渡海できなかったため、参戦できなかった。
藩政においては、慶長17年(1612年)に法令75条を制定し、村上八兵衛を中心として元和の藩政改革を行なった。寛永8年(1631年)からは野中兼山を登用して寛永の藩政改革を行ない、兼山主導の下で用水路建設や港湾整備、郷士の取立てや新田開発、村役人制度の制定や産業奨励、専売制実施による財政改革から宇和島藩との国境問題解決などを行なって、藩政の基礎を固めた。
兼山の改革は効果も大きかったが、その功績を嫉む一派による讒言と、兼山の改革における領民に対する賦役が重過ぎた事から人々の反発を買い、明暦2年(1656年)7月3日に、忠義が病を理由に子の山内忠豊に家督を譲って隠居すると、兼山は後盾を失って失脚してしまった。
忠義は寛文4年(1665年)11月24日、73歳で死去した。
--------------------------------------------------------
次回は、ついに秀吉の死が描かれる。
ドンドン老けて、暗黒面に犯されていく秀吉が面白かっただけに少し残念。
では、ここまで。