初めて 被災者の方と話しました | みみぴちがってみみぴいい

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祖母が亡くなって3年。





山梨にある祖母の家を この春あたり取り壊すことになっていました。



それが 従姉妹の仕事の関係から 被災者の方に提供する住宅にいいかいって提案され



持ち主である父が登録。すると すぐに応募があって あっちゅうまに決まって





昨日大掃除して引渡しってことになったので 一家総出で手伝ってきました。





福島の方でした。



大地震で家が傾き 敷地はひび割れ 津波がすぐそこまで来て・・・



中学生の娘さんのお友達は その日が卒業式だったこともあり 自宅にいた子もいて



海岸沿いの友達とは連絡がとれないままだそうです。





地震避難で学校の体育館にいたらすぐに 原発20キロって言われて二度目の避難。





持ち物は手荷物1個限定。



なんにももってこれなかったそうです。 91歳のおばあちゃんが一緒でした。



学校のかばんもないって照れたように笑いながら教えてくれました。



吹奏楽をやってるから こっちの学校でもやりたいって話してくれました。






関東のあちこちに こうして 被災者の家族が 親戚を頼ってやってきているようです。





そのご家族と 1日一緒に掃除をしながら話してたんだけれど




長閑な福島の田舎で 隣も遠くって 山の中に住んでいて お風呂は薪。



トレイはぼっとん。 水は井戸だって。




そのご家庭に限ってだけれど 電力 ワタシよりずっと使ってなかった。



けど 首都圏向けの原発が原因で 傾いて弱っている家を もしかしたら倒れてるかもしれない家を



家財道具を 知り合いを 学校を 置き去りにしてきたってことだったと知りました。





一緒に避難してきた親戚は 山梨まで一緒に来たけれど 色々あって新潟に移動したそうです。



先行きが見えない 原発という厚いカーテンの向こうに 大事な家がある人たちが



たくさんいるってことを 目の当たりにしました。





耳が遠いっていう91歳のおばあちゃんに うちの祖母の愛読書だった



天皇ご一家の写真集を母が渡したら 泣きながら読んでいたそうです。








聞いた話だと 行政も初めてのことすぎて 対応が悪いらしい。 あ これ山梨ね。




少しづつ 改善されたり 麗しくなるかもしれないし そうなることを 何よりも願います。





実際 おとといはなかった動きが 今日から始まったりしてるって言ってました。



ワタシが考えていた一番は 帰宅できることだよなって思ってたら おじさんが一言 福島弁で




「戻っても くらせねえかもだかんな 汚染で」 って呟いてたのが 忘れられないっす。








91歳のおばあちゃんからしたら 山梨に嫁いだ娘の家に避難したらしいんだけれど 





娘さん家族に気を使うから 自分の家族と暮らしたいって言ったので 




福島を離れて10日目に 部屋探しを始めたんだそうです。







「すごいねーーー 奥さん いい嫁なんだねーーー


 旦那さんも すぐに自分のお母さんの希望かなえるなんて 優しいんだねーー」







ワタシが大声で感動してたら





「家族だがんなーー。やっぱりさ 家族が一番いいよね」








篤く 深く ありがたいお言葉みたいに響いたのでした。 











1日いて 一度も愚痴を聞きませんでした。 東電批判も 行政批判も 首都圏批判も。








ただ 一生懸命 空き家だった家を掃除して ありがとうありがとって 働いてました。










うちのばあちゃんの家財道具は古いけど どれでも使ってくださいね、




こっちの棚 空けておくからって話してたら






持ち運ぶものは なんにもないから このまんまでいいしって言われて はっとしたりね。









了見の狭いこと 言っちまったなって反省しまくりの 1日でした。










近所の町会長さんや 班長さん? みたいな人たちを みーーーんな巻き込んでいたうちの叔母。








地域で助け合っていくって感じで 体制を整えてました。









見知らぬ土地だけど おばあちゃんも娘さんも どうか 気を使わないで眠れますように。









福島の原発でお仕事してらっしゃる全ての方たちに 頭を下げます。








ワタシ 今日まで毎晩 福島の原発に鎮魂の祈りを捧げてました。 








福島に全員が戻れるまで 捧げられる限り 小さな祈りを捧げます。