國學院大學図書館で長尾宗軾著「宗演禅師と其周辺」(大空社)を見つけた。
私のところに「慎独」という掛軸がある。
宗演の揮毫によるものと言われていた。
この軸は父方の祖父「檜槇常三郎」の形見分けとして、父が持っていたもの。
母の逝去を機会にその掛軸を私がもつことになった。
いま、東京多摩のわが家に飾っている。
慎独は江戸期にわが国に広がった儒学の用語。
近江聖人と言われた儒学者の中江藤樹から伊予の国では伝えられた言葉だと思っている。
それを揮毫した宗演のことを知りたいと思っていた。
掛軸がネットで「釈宗演」の書だというところまではわかった。
若狭国の高浜に生まれ、京都で修行した禅宗臨済宗の宗教家である。
彼の履歴は英語を学ぶために英語を慶應義塾に入り、それをきっかけにインド、セイロンで仏教を学んでいる。
国際派仏教徒になり、アメリカで開催された世界宗教会議に鈴木大拙とともに参加し、「Zen」という米語を広めたという。
5月26日(日)は渋谷の大學図書館で「町内会の廃止」関連の文献調査。
その作業が一段落したので、仏教資料をチェックすることにした。
宗演禅師の資料を見つけて、開架式書庫に入った。
その中で最も読みやすそうな文献をとった。
冒頭の長尾宗軾著「宗演禅師と其周辺」(大空社)である。
明治大正期の図書の復刻版。
表現や漢字が難しく簡単には読めない。
編集スタイルは宗演に関する簡単な間柄等が書かれ、数行で関係者が宗演を語るというものである。
福沢諭吉や台湾総督府や関東大震災後の東京市長の後藤新平等の寄稿もある。
私が探していたのは、祖父が生きた伊予大洲での宗演のことだった。
見つけた。
大正2年9月に大洲の大禅寺に招き、3日間の講話を依頼し、宗演禅師が亡くなるまでの交際が記されている。
宗演が八幡浜での雲水時代(17歳※明治9年)に大禅寺で世話になったことがあり、そのお礼の講話だった。
その書き手は「伊予(大禅寺)河野玄要」とある。
慎独の揮毫はこの3日間お礼のものだったのでないか。
私が持っている「慎独」の軸が宗演の揮毫によるものならば、大正2年9月に大洲大禅寺での講話の際のものではないか。
大禅寺は私の父方の檀家だった。
大正2年9月は私の父が誕生する2年8カ月前にあたる。
祖父は大禅寺の世話役等をしていたと伯父から聞いていた。
祖父の弟茂四郎は宇和島市吉田海蔵寺の住職になっており、大正2年9月25日に分家したという記録がある。
茂四郎の戒名は檜槇月窓だった。
大禅寺と同じ臨済宗妙心寺派である。
慎独の書は大正初期の伊予大洲周辺の私の先祖をおもわせてくれている。
伊予大洲生まれの父は旧制中学卒業後に海軍海兵団に入った。
父の没後は佐世保の禅寺で40年ほど母が守り、今は母と真言宗浄漸寺の墓に眠っている。
私の許にある宗演の慎独の軸とのつながりが、私なりにわかったことに安堵している。