多摩ニュータウン散歩への事前調査     | まちづくりの将来

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「多摩ニュータウンを歩くことにしましょう」。

横浜市在住の田口さんからの提案があった。

5月3日に多摩センターで会うということになった。

私を含めて4名の多摩NT散歩の提案だった。

これまでは横浜市関内か桜木町の新横浜市役所だったので、断る理由はない。

だが、どう見せるのかを決めなければならない。

まずは現場を歩くことにした。

 

 

メインを多摩センターエリアと定め、事前調査の散歩を試みた。

最初に八王子市東中野町の家庭菜園に前日購入の10ℓ用のジョウロを持ち込み、そこから移動。

大栗川沿いを歩きモノレールの大塚・帝京大学駅へ。

前日の5月2日(木)11時前。

 

 

モノレールで終点多摩センター駅を降り、解体中の京王プラザホテルを右に見ながら丘の上プラザ辺りに到着。

4人での打合せの喫茶店を探す。

明日が駅周辺のお祭りということで、予約を受け付けてはもらえない。

 

 

丘の上のプラザを左折して、ピューロランド。

キティちゃんをメインとしたテーマパーク。

不思議な空間である。

客層にマレーシア風の人などに驚きながら、ベネッセの東京本部を見上げる。

 

 

ベネッセの本社は岡山市にあり、東京の機能をここに集めた。

守衛さんの弁である。

進研ゼミのPRがある。

そういえば、原田泳幸氏が社長として佐世保市役所に訪れたことがある。

ピューロランドとベネッセんの東京本部は多摩ニュータウンのシンボルなのかもしれない。

 

 

その後に、三越に入り5階の丸善、6階のフードエリアを見て回った。

1階にスタバがあるが、4人で話し合えるような場としてはどうか。

そんな空間を求めて動いた。

次に、その上のパルテノン多摩に入った。

 

 

なんだか懐かしい。

ここは1980年代に文化行政の枠組みで調査を行った。

後に自治体バブルといわれた音楽と博物に関する行政。

2020年7月にリニューアルオープンしたとあって、今でも立派な施設だ。

散歩中に、近くの都立松ケ谷高校の学生向けの演劇観察の授業が大ホールで開始されていた。

この地域の学習に貢献している。

 

 

ニュータウン事業は大都市住宅政策として進められた。

最初に千里、次いで高蔵寺、千葉、多摩と続いた。

1964(昭和30)年、多摩村、稲城町、柚木村、町田市の約3000haが多摩ニュータウンのエリア。

開発区域として開始された。

入居最初は1971(昭和46)年3月で、諏訪・永山地区だった。

 

 

多摩丘陵は営農地帯であり、住と農の連携が開発される側の農民も研究者も求めた。

1963(昭和38)年2月、多摩村地主会役員5名が村長宛に公団住宅団地誘致陳情を行っている。

その際には、農業と住宅の共存を提案していた(多摩市文化振興財団「企画展・多摩ニュータウン開発の軌跡:『巨大な実験都市』の誕生と変容 8頁参照」。

だが、大都市への人口流入の圧力を優先させた。

それが今では急速な高齢社会をきたしている。

 

 

私が入居したのは堀之内地区。

旧柚木村の長池地域であって、開発としては終盤だった。

1990年代に入ってからである。

 

 

パルテノン多摩で5月3日から多摩ニュータウンの企画展が始まる。

メンバーの一人のアメリカでの学会報告を聞きながら、大都市への人口集中への政策を考える。

今回の多摩散歩はその程度の受け入れを考えることにした。