はるか昔のことである。
西海橋の下を通る小舟から父が海に落ちた。
ポンポン船だったか。
隆々と渦巻く海に父が沈んだ。
伊の浦瀬戸から出た船。
夕方だった。
見送る人たちに向けて船上に立って、父は手を振っていた。
針尾島に渡れば、そこから西肥バスで佐世保に帰る。
そんなささやかな船旅のこと。
頭上には怪獣映画のラドンがくぐった西海橋があった。
船が揺れた。
私は座り込んでその辺りのものにつかまった。
父が渦潮の海に落ちたのだ。
そこで私の記憶は切れている。
びしょ濡れの父がどこかの家の囲炉裏端で暖(だん)をとっていた。
それを見ている安堵の記憶は残っている。
小学生だったか。
谷郷町の私の家は小さい家だったが、高校生二人を下宿させていた。
北高に夜間部があったのだろう。
母はその下宿人への食材を私たち二人息子にも与えていた。
苦しい家計の切り盛りのためだった,母から聞かされていた。
その高校生の一人は横瀬浦に近い伊の浦郷の出身だった。
その縁でサツマイモの苗をもらっていた。
当時、父は近くの焼け跡に畑を作っていた。
50坪位だったが、いろんなものを植えていた。
ダイコン、ニンジン、ナス、ネギ、ニラ、そしてサツマイモ。
司馬遼太郎の「街道をゆく11 肥前の諸街道」(朝日文庫)には早岐から西海橋を渡って、横瀬浦に移動する記述がある。
その主題は平戸から追われるボルトガル商船隊が長崎に行く過程のこと。
キリシタン大名大村純忠のことを書いている(137頁~163頁参照)。
その中に、カライモ(サツマイモ)のことがふれられている。
やせた土地でもできる「備考植物」「救荒植物」であるという。
あのウイリアムアダムス(三浦按針)が那覇の市場で一袋購入し、平戸商館のリチャードコックスに贈ったという。
それが西九州のカライモの始まりだという。
伊の浦郷からの佐世保への帰りに父が渦潮に落ちた。
イモを作っている農家を訪ねた帰りだったにちがいない。
イモは当時の貴重な食糧だった。
ふかしイモ、ごはんの中での炊き込みイモ。
炊飯器が出る前の窯だきだった。
一昨日に3本、今日4本のサツマイモの苗を植えた。
畝の頂点から20センチほど掘り、そこにおさめた。
あの時のサツマイモができるのか。
私は65年ほど前の記憶を探している。