新宿三井ビル の記憶     | まちづくりの将来

まちづくりの将来

私たちが生きている地域社会を見つめ、これからのあり方を考えるブログにしたい。

鉄とガラスのビルはあの時のままだった。

新宿西口の雑踏。

人の波に乗って歩いた。

地下の左側の通路を進んだ。

 

 

地下道の「新宿の目」の大きな目は懐かしい。

あの時にはセメントの打ちっぱなしの通路だったのに、真っ白にコーテイングされた通路になっていた。

通路の右側は超高層ビルとの接点を教えるスペースが現れる。

そして地下道の出口。

記憶の断片の新宿三井ビルである。

3月28日(木)11時45分に入った。

 

 

1978年4月から総合研究開発機構が私の仕事場になった。

新宿三井ビル37階にエントランスがあり、52階が私の居場所。

NIRAという略称。

政府系シンクタンクだった。

縦割りの官庁システムでは、先進国家としての政策システムを構築できない。

田中角栄氏が総理の時代に発想されたしくみだと言われていた。

国、都道府県、財界が資金300億円を供出するものだった。

研究員は省庁、大手企業、都道府県、政令指定都市からの若手職員だった。

 

 

日本都市センター研究室が私のそれまでの職場だった。

結婚から4か月の職場移動。

1回の面接だけで出向が決まった。

大都市問題の国際会議を担当する委託研究員だった。

2年目には地方都市問題の政策コーディネーターにも加わった。

 

 

職場というよりも、未来の日本や地域、企業を考える集団だった。

やりたいことは何でもさせてくれた。

よく飲み、よく遊んだ。

 

 

私にとっては全く知らない場所であり、世界だった。

当時の高名な学者とも出会った。

深夜になってタクシーで帰宅することもしばしばだった。

30歳をこの場所で迎えた。

 

 

この日の12時ちょうどに約束の人と1階ロビーで会った。

私より1歳上の大内さん。

周辺にいるサラリーマンとは違う姿はすぐにわかった。

彼も「太ったね」と言った。

 

 

その場所で懐かしい話を1時間ほど。

その後はビルの地階でランチを食べた。

話は40年以上も前のことで弾んだ。

 

 

今朝(3月29日(金))の朝日新聞の25面に隣の新宿住友ビルの記事があった。

「新宿住友ビル50歳 再生の道しるべに」「『新宿住友』脱建て替え」「広場にガラス屋根にぎわい戻る」

こんな乱して、1974年3月31日でこのビルが50歳になり、それなりのリノベーションを行ったという内容の記事だった。

 

 

新宿住友ビルは新宿三井ビルの隣りのビルのこと。

ほぼ同じ時期に建設された。

食事か会議等で使わせてもらった。

 

 

このエリアは淀橋浄水場の跡地。

京王プラザホテルもあった。

私が新婚時代に働いたこの場所も50年が経つ。