マイカー廃車プラン     | まちづくりの将来

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私たちが生きている地域社会を見つめ、これからのあり方を考えるブログにしたい。

今年の2月いっぱいでマイカーを廃車にする。

マイカー廃車を決めたのは昨年の12月だった。

年末でもよかったのだが、もうひとつふん切れなかった。

年明けて1ヵ月半、やっと心が決まった。

 

 

車を運転することにそれほどの関心はなかった。

危険な道具を動かすには適切な性格ではない。

二十歳前後に友人から言われていた。

自分でもわかっていた。

 

 

東京での生活。

車の必要性を感じなかった。

すべて電車とタクシーですんだ。

近くに車をもった友人がいたこともある。

助手席が私の居場所だった。

 

 

東京郊外のゴルフ場に誘われた時にも早朝から迎えを待った。

帰りは近くまで送ってもらった。

それでよかった。

 

 

車の必要性は突然に起きた。

山梨県甲府周辺が私の職場になった時である。

どこに行くのにも電車かバスかタクシーで行く。

それですんだのは5月までの2ヶ月だった。

 

 

電車もバスもタクシーも中途半端な交通だということを見せつけられた。

職場の同僚も私のサポートも2ヶ月で終わった。

一年発起しかなかった。

自動車学校に通うことだった。

48歳にもなっていた。

早朝一番に学校に行き、欠席の穴埋めで教習を受けた。

仲間は全て私より若い。

免許と車を手にしたのは3か月後だった。

 

 

運転は下手くそである。

スピード感も悪い。

車庫入れもへた。

自損事故が多かった。

山梨県内の細い道路と金帰月来の中央高速道路。

若葉マークでトラックから追い抜かれる。

よくぞ生きていたと思う。

 

 

宇都宮の大学が職場になった。

新幹線と在来線が基本だったが、マイカーの私は車を使うことが多かった。

関東一帯はマイカーで動いた。

 

 

弘前も車だった。

横に雪が降りつけるなかで、走った。

好きでもないマイカーを走らせた。

 

 

その延長線上に今がある。

佐世保の街を青森ナンバーで走った。

 

 

この数年はマイカーの居場所は広場だった。

東京等からの友人を長崎や平戸を案内する。

最近では、佐賀空港への移動に使った。

 

 

今の車は四駆。

雪国では役に立ったが雪のない佐世保では無用の長物。

13年目なのに6万キロしか走っていない。

2月中に車を掃除し受け入れ会社に持ち込むことで、私のドライバー人生も終わる。

免許証の期限は2年後の3月27日。

ゴールド免許で終わることになればいい。