「慎独」という言葉     | まちづくりの将来

まちづくりの将来

私たちが生きている地域社会を見つめ、これからのあり方を考えるブログにしたい。

儒学の資料に「慎独」を見つけた。

中国の儒学者の劉宗周が使ったという。

慎独を幕末期に平戸藩の楠本端山に求めている資料である。

林良斎という儒学者によるものらしい(文章がわかりにくい)。

 

 

慎独は私にとっては懐かしい。

40年前に亡くなった父。

その少し前に父の出身地の愛媛県大洲市から何本かの掛軸をいただいた。

長男から次男の父への形見分けだったと思う。

その軸の中に大書した「慎独」があった。

それまで禅宗のものだと思っていたが、そうではなかった。

 

 

父が存命の時には大塔の家でこの軸をかけることがあった。

太文字で書かれている二文字は書家の強い意志を感じていた。

私が好きな掛軸である。

母がマンションに移って掛軸の部屋を設けたが、この軸が下げられない。

天井が低いのだ。

それでこの10数年かけることがなかった。

 

 

あらためて、ネットで「慎独」を調べた。

儒教の言葉として出ている。

多くは儒学研究の文献だった。

ネット情報の中に大洲市広報があった。

2003年5月号「広報おおず」。

 

 

その15頁の下段。

大洲藤樹会によるシリーズ「藤樹先生に学ぶ(26)」のコラム。

そこに「『慎独』について」があった。

中国の古典の「大学」「中庸」に基づくもの。

「慎」は修養で「独」は私のことだという。

「わが胸の内にあるものは天に通じ、地に通じ、鬼神にも通じている」

 

 

 中江藤樹は江戸時代に大洲に住んで、晩年は彼の母の住む近江に帰った。

大洲で若い時代を過ごした父は朱子学の中江藤樹を話題にしていた。

 

 

父にとって郷土の誇りだったのだ。

今でも中江藤樹のことを耳目に接すると父を思い出している。

 

楠本端山は幕末に針尾島で生まれ、平戸藩の儒学者になった。

尊王の松浦詮(心月)公を支えた。

平戸藩校の維新館とその担い手の1人として調べている。

廃藩置県まで、私の郷土の佐世保は平戸藩内にあった。

もちろん、針尾島は今も佐世保の一部である。