先日、叔母の法事で沼津に行く機会があって、気になっていた沼津御用邸記念公園を訪問してきました。9月3日撮影。
西附属邸御殿の玄関。1908年・明治41年の増築。

「沼津御用邸は1893年・明治26年、大正天皇(1879年・明治12年~1926年・大正15年、当時は皇太子(14歳))のご静養のために造営されました。本邸はその後に拡張工事をなされ、明治33年には宮内省所属の片山東熊と河面徳三郎の設計による約70坪の平屋のルネサンス様式の洋館も建てられました。この本邸は大正天皇、昭和天皇に愛され頻繁にご利用になられましたが、残念ながら1945年・昭和20年の空襲で消失してしまいました。」公園のHPより要約。
『西附属邸』は「明治38年8月、宮内省は本邸西隣にあった川村純義伯爵の別荘を買い上げて皇孫殿下(昭和天皇、1901年・明治34年~1989年・昭和64年)のための御用邸としました。
川村別邸は敷地約10,000平方メートル(3,030坪)に木造平屋建て880平方メートル(約266坪)の建物で、明治23年頃に建築されたものと思われます。この建物は現在の西附属邸の東側部分、すなわち謁見所や御食堂などのある部分に当たります。
翌39年6月に皇居内の附属建物424平方メートル(約128坪)を移築して継ぎ足しました。これが現在御座所や女官室などがある部分です。さらに明治41年7月に御車寄、御料浴室などが増築され、大正11年には御玉突所が増築されて渡り廊下で結ばれ、全体面積1,270平方メートル(約384坪)の附属邸が完成しました。」同
陛下のプライベートエリア(右側)に向かう廊下。左側はオフィシャルエリア。

ドイツから取り寄せたという当時の波打つガラスが残っている。

プライベートエリアの西側のオフィシャルエリアにある御食堂。肘掛け椅子と丸テーブルは実際に使われていたものだそうだ。

謁見所。これらの椅子も本物で明治初期から使われたデザインだそうだ。右の玉座はさすがに立派だ。

「西附属邸は皇孫殿下の御用邸ですが、昭和天皇は天皇になられてからも日常のおくつろぎやお休みになられる時はここをよく利用され、本邸は人とお会いになるなど公務の場合に使われていました。そして昭和20年に本邸が焼失した後は西附属邸が本邸の役目を果たすようになり、昭和44年12月6日に沼津御用邸が廃止になるまで、昭和天皇をはじめ皇室の方々に利用されてきました。」同
プライベートエリアの御座所(10畳)。椅子は宮中からのものという。

御寝室(10畳)

寝室の隣の御着換所(8畳)。プライベートな居住空間は計28畳の三間しかない。いずれも高価な銘木や手の込んだ釘隠しなどが用いられてるそうだ。素人の見た目には質素で、これらが皇室のお部屋か?と少々驚いた。

御寝室の前から御玉突所を見る。

1922年・大正11年に増築された御玉突所。こちらの内部の調度は復元だそうだ。
前年の大正10年に日本の皇太子として初めて昭和天皇は欧州各国を歴訪された。長旅の軍艦上ではビリヤードとデッキ・ゴルフを大いに興じられたという。それでここにも御玉突所をということになったのかもしれない。

御玉突所から謁見所を見る。

風情のある中庭。

天窓があって明るい調理室。火事を起こさないよう火回りはここで全て行っていたそうだ。(暖房は各室は電気ストーブがあった)

この邸のさりげない質素さは、さすが日本の皇室と思わせるところがある。赤坂迎賓館は大正天皇の皇太子としての住まいとして1909年・明治42年に建てられたが、明治天皇の「贅沢すぎる」の一言で居住が見送られたという逸話がある。「質素」という日本人に失われつつある美徳は皇室でのみ脈々と受け継がれようとしているのではないかと考えさせられた。

(写真の編集に不備があったので修正し、再投稿しました。)