『茂手木伸夫』 のコラム -4ページ目

「定時制高校の不合格者が増加している」ということは・・・

 「定時制高校の不合格者が増加している」ということは・・・


 定時制高校の志願者が昨年、20年間で初めて定員を上回った。そして今年は全国の夜間定時制で約1200が不合格になった。東京都立の二次募集では昨春の2.7倍に上る313人が落ちた(朝日新聞5月19日朝刊)。


 ・・・ということは、要するに高校に行きたいが、定時制高校にすら入れない子が増えているということか。定員を大きく上回ったということは、不況の影響だろうな。寂しいな。不合格者を取材した新聞記事によると、共通したキーワードがあったという。「全日制不合格」「母子家庭」そして「貧困」。定時制にも通えない子は、どこで学ぶのだろう。昼間の働き場所はあるのだろうか。仲間ができるのだろうか。居場所はあるのだろうか。


 私の兄弟6人のうち3人は定時制高校の出身だ。姉二人と兄一人。昭和20年から30年代(1950年代)だから珍しいことではもちろんない。しかも家は母子家庭だ。私が幼かった頃、毎日夜10時過ぎに戻る姉が、その頃発売されたばかりのチキンラーメンをおいしそうに食べていた姿を覚えている。寝ぼけ混じりの嗅覚だけど、しっかりとチキンラーメンの香りをとらえていた。


その頃は向学心に富んだ子でも貧しい家庭では定時制に行くことは当たり前だった。勉強したければ定時制高校に行って、それからもっと上の学校に進んだ人は多かった。全日制には私のすぐ上の兄からで、私も都立の全日制に進んだ。


 私の通った都立高校は定時制の教室が併存していた。クラブ活動や生徒会活動で遅くまで学校にいると定時制の生徒とよく顔を合わせる。私たちはみっともない背広の制服だけど定時制の服装は自由だ。バイク通学や自動車で通学する生徒もいた。自由で大人びて、そしてすごく楽しそうだった。


何人かと親しくなったが、地方から出て親戚の工務店で働きながら通う子。看護師をめざしている、とてもかわいい娘。昼間の高校を何らかの理由で退学になった子。また、その当時、はやっていた学生運動の影響でヘルメットをかぶって暴れて、退学になった人もいた。もちろん、20歳過ぎの大人もいた。でも、何でだろう、みんな明るかったな。


 その頃は定時制は定員を下回っていた。希望すれば、入れたはずだ。もちろん試験はあっただろうが、2次募集や3次募集、そして随時の募集などもあったから、たいていは入学できたはずだ。


さて、それはともかく、なぜ定時制高校にこんな多くの不合格者を出してしまうのだろう。高校の教育は当たり前の基礎教育でしょう。誰にでも高校教育を受ける権利があるのではないか。高校は人生の入り口だよ。この入り口で未来ある若者をシャットアウトして良いのだろうか.人生の入り口で躓(つまづ)かせてどうするの。将来の可能性の扉を閉ざしてはいけない。


 そうなんだ。誰でも人間は無限大の可能性を持っているのだ。学歴でどうのこうのではないよ。学びたい、成長したい、いろいろな人と巡り会いたい、その思いをせめて高校へ入ることでつなげていきたいと思っているだけ。


 もちろん高校に行かなくても自分の可能性を伸ばせる人たちは多くいる。それは十分知っている。


 私が社員教育で教えているK君は中学卒しか学歴はない。三〇歳代の彼はパチンコ店を多く経営している会社の幹部だ。エリアマネージャーとして部下の信頼も厚く、営業成績も優秀な、いってみればその会社のスターだ。


学歴偏重という人間の過去の価値を見るのではなく、人間の将来の可能性を見る、そして、K君のように自分の可能性を広げ大きくする努力をしてきた人たちがいる。そんなパチンコ業界を私は好きだ。


でも、だからといって誰でもK君のようになれないことも知っている。せめて、高校で学びたい、仲間と一緒にいたい、という15歳の少年、少女のささやかな望みは叶えてあげたい。


 今、格差の拡大が進行している。この定時制高校にも入れない子が増えていることは、貧困の再生産を生む。格差の固定化につながる。日本の将来に対して、ますます不安が強くなってくる。

「ゆとり」は使えない!?

「ゆとり」は使えない!?

 ある会社の中間管理職の研修を行っているときである。コミュニケーションテーマのグループ・ディスカッションで「ゆとりは使えないねー」と発言した人がいた。

 そのグループの同僚たちから同意の声がどんどん出た。

 「ほんと!ゆとりの連中は『すいません』しか言わないのだよ。何を言っても、最初に『すいません』だもの・・・」

 「これを片付けろと言ったら、指でさした物だけをどかすんだから・・・」

 「だいたい、挨拶ができないね、ゆとりは。・・・」

 「自分の頭で考えてないから、いつも指示待ち・・・」

 など、大いに盛り上がった。


ゆ・と・り・・・。いわゆる「ゆとり教育」世代のことだ。ゆとり教育が実質的にスタートしたのは2002年の新しい教育指導要領の実施からなのだろうが、実際は92年の土曜日の休校(最初は第2と第4の土曜日、今は毎週)からなのかな。過去の詰め込み教育を反省して、もっと個性を重視し「全人的な生きる力」を身につけるためと、当時の報道にあったように記憶している。総合学習の時間なども生まれて、特徴ある個性的な教育が行われたようである。

私が印象に残っているのは円周率のことだ。3.14がなんと3で教えると言うことに驚いた覚えがある。3で大丈夫かよ・・・と思ったものだ。理科や社会の授業時間も減ったのではないか。

ゆとり世代とは、一般的に1986年以降に生まれた人たちのことをさすようだ。「ゆとり」にどっぷりつかっているわけではないが、少しは影響を受けた世代なのだろう。典型的な人として取り上げられるのが、あのエリカ様といわれている沢尻エリカという女優だそうだ。これはよくわからない。ワイドショーネタはわからない。この人がどのような人か知らないが、何かの会見の時に感想を聞かれて「別に・・・」とか言ったことがマスコミ芸能関係者を怒らせたとか。さすが「ゆとり世代」だと言われたとか。 この辺は自信がないな。


研修の休憩時に詳しく聞いたら、「ゆとり」世代の特徴として、指示待ち人間が多くて、コピペ(コピー&ペースト)頭で、社会の厳しさを知らない、などと中間管理職の諸君は言っていた。


なるほど、少しは納得するな。自分の頭で考えずに、答えを簡単に外からみつけようとする、そのような世代か。


でも、待てよ。この会社の社員教育に関わって10年近くになる。10年前から私は「指示待ち人間になるな」「自分の頭で考えろ」とずっと言い続けてきた気がする。なんだか、何も変わってないように思える。いつの世も新人は「使えない」と評価は決まっているようだ。世代の違いのせいにしてはいけないよ。


それよりも私が一番気にしているのは、現代の若者全般(20代や30代前半)に言えることだが、「生きる知恵」に乏しいと感じることだ。「知恵」がない。本当の意味での「人間の知恵」がない。ゆとり教育が「個性を豊かに生きる力を身につけさせよう」と考えたのは、私は素晴らしいことだと思う。見かけの個性は豊かそうに見えても、中身の個性は貧しい若者が多いし、パソコンや携帯機器の知識はあっても「人の世を生き抜く知恵」は貧弱だ。


ゆとり教育はそこをなんとかしたかったのかもしれない。でも、教育指導要領で人間を変えるような発想事態が貧弱なのだ。


学校の教育だけで人間が変わるわけがない。変えようとすることは人間に対する冒涜だ。やはり、人間は社会が育てるのだ。人間社会を生き抜く本当の知恵は人間社会の中での経験が培うものだ。子供社会でどのような人間関係の経験を学べるか、これが大事だと思うのだが。


さて、ゆとり教育を見直すらしい。これについては疑問だ。なぜ見直すのか。

だって、ゆとり教育にどっぷりつかった世代はまだ社会に出ていないだろう。社会的な弊害が起きているのだろうか。沢尻エリカさんが世間を騒がしているからゆとり教育を見直すのか。


そこでネットを使って調べてみた.ゆとり世代でなくてもネットで調べられる良い世の中だ。そうしたら、PISA(国際学習到達度調査)の調査結果で日本の学力が低下しているとの結果によってアタフタして見直すことにしたらしい。そりゃそうでしょう。円周率を3で教えるなんてことをやったら学力は低下するに決まっているでしょう。でも、学力低下は覚悟していたのではないのですかね。

2007年のPISAによると数学は6位から10位へ、科学は2位から6位へ、読解力は14位から15位へと低下している。数学や科学ももちろん大事だが、読解力が低い。これは日本語が読めないと言うことだろう。なのに、小学校から外国語を必修させるという。日本語もまともに読めない子が多いのに英語を学ばせようとしている。困ったことだ。日本人は日本語で考えるのだから、日本語をしっかり教えてほしい。


 社員研修で文章を研修生に読ませるときに、いちいち漢字の読みを教える苦労を研修講師にさせないでもらいたい。  これは切なる願望である。

ワールドカップ選手選考のマネジメント的考察

ワールドカップ選手選考のマネジメント的考察

 ちょっと大げさなタイトルだな。

5月10日にワールドカップ南アフリカ大会の選手選考が発表になった。サッカー評論家やスポーツ評論家の意見が飛び交っている。街角の評論家や自称評論家、にわか評論家も騒がしい。いよいよW杯が近づいてきて雰囲気が高まってきた。評論家たちの意見ではおおむね順当な選考であって「現実的」な選択だと評価されているみたいだ。個人的には、香川真司や小笠原満男と平山相太を選んでほしかったが。

 なかには三浦カズを南アフリカに連れて行けと騒いだスポーツ紙もあったみたいだけど、これは笑えた。三浦カズをつれて行けとは、今度のワールドカップでの日本代表に期待していないことの意思表明だな。

 選考の中でもちょっとしたサプライズは川口能活を選んだことだろう。けがによって今シーズンのリーグ戦に出場していない選手が選ばれた。これは面白いし、中村俊介や中澤佑二のコメントを読むと、結構選手間には好評に受け止められているみたいだ。

だが、23名の選手選考という限られた資源の有効活用としてはどうなのかと疑問が出る選択でもある。マネジメントの世界では有限な経営資源の最大限の活用が常にテーマとなる。このような選択では、敵を想定して、的確に分析して、その敵に対処するための戦術選考が普通のことだろう。その中で現実として敵に対して戦えない選手を選んだことはどうなのだろうか。

 しかし、次のように考えたらどうだろうか。敵とはカメルーンやデンマーク、オランダだけではなく、内部にもあるとしたら。選手間のコミュニケーション、心理面や精神的なコンディションの中に敵が潜んでいるとしたら、その敵に対しての有効な対策になる戦術的選択が川口能活の活用にあるのではないか。

 そうだよね。敵はいつも外にあるとは限らないものだ。何しろサッカーのエリート集団である代表なのだから、意外と負けを経験している回数が少ないから、初戦のカメルーンに負けたらガタガタになるような気がする。そのような時に川口能活を選択した意味が大きくなるのかな。これはマネジメント的に考えて大変面白いことだ。

 次に今回の代表の構成で気になるのが選手のW杯の経験回数だ。W杯4回目の選手が川口、楢崎の二人。02年の日韓と06年のドイツの2大会を経験して今回が3回目の選手が稲本だけ。2回目の選手が中澤、駒野、遠藤、中村俊、玉田の5選手。その他の15選手が初めての選出だ。これはちょっと気になる。フランス大会から4回連続の本大会出場だ。なのに、初めての選手がちょっと多くないのか。

 ドイツ大会の時に、ジーコ監督が「現実的」な選択をしたことを覚えている人も多いと思う。あの時に次の南アフリカをにらんで若手を育てる選択はなかった。トルシエはオリンピックの監督と代表監督を兼任して若手を育てることも彼のマネジメントにあったが、ジーコにはそれがなかった。そして、今回の選択では経験者が少なかったとの結果になった。

 事業の継承は経営マネジメントの最大目的である。そのために後継者を育てること、次代の若手を育成することは絶対に必要なことである。4年前の「現実的」選択が悔やまれないだろうか。

 そして、今回も「現実的」選択である。23歳未満の選手は3人だけということが4年後のブラジル大会に向けてどのような未来へのツケを負わせるのだろうか。

 日本サッカー協会では2015年までの世界のトップ10入りを果たし、2050年までにはW杯の優勝を目指すというビジョンがある。2005年に決めたらしい。JFA2005年宣言として約束したらしい。その長期的ビジョンと今回の選手選択との結びつきはあるのだろうか。今回の選手選択が長期的なビジョンとの戦略マネジメント上、どのように関わるのだろうか。

 イングランドのプレミアムリーグが終了した。最終節のマンチェスターユナイテッドとストークとの試合をテレビ観戦した。チェルシーの優勝に終わったが、得点王争いは試合前までマンUのルーニーとチェルシーのドロクバ選手が並んでいた。ルーニーは自分にもシュートのチャンスがあったにもかかわらず、味方にパスを出すという選択をした。これを一緒に見ていた家の奥さまは感動していた。「なんてルーニーって素晴らしいの! 自分の得点王よりチームの勝ちを優先する姿。かんげき!」と。

 日本人は好きだよね。この姿勢。自分のことより組織を優先することに。私も日本人だから好きだよ、この姿勢は。逆にドロクバはウイーガンとの最終戦でPKのチャンスに自分に打たせろと駄々をこねたらしい。ドロクバの姿勢は嫌われるよね。

それはそうなんだけど、何というか、歯切れが悪いけど、ルーニー君も、もっとワガママでも良いのじゃないか、と、思いもするのだが・・・。