『茂手木伸夫』 のコラム -2ページ目

ワールドカップ日本代表はコラムテーマの宝庫

ワールドカップ日本代表はコラムテーマの宝庫



いよいよ大一番。明日25日の早朝だね。デンマーク戦。寝ないで見るか、早起きして見るか。うちの奥様は早起きして見ると言っている。



それにしても、ブログの更新はタイミングが必要だ。反省、反省。というのも、カメルーン戦の前にコラムの下書きを書き終えていた。タイトルは「恥を知れ、日本代表はすぐ帰れ」というのだからちょっと過激な内容で、アップしそびれていた。






 その下書きの内容というのは、カメルーン戦の2日前に朝日新聞に出ていた「小旗の前の日本代表」という小さな現地特派員の囲み記事を読んで書いたものだ。



南アフリカのキャンプ地ジョージの空港に日本代表が着いたときに、地元の人が小旗を振って温かく迎えたという記事が元になっている。




 日本代表を一目見ようと大勢の市民が小旗を振って歌を歌って空港で待っていた。ところが、現れた代表一行は逃げるようにバスに乗り込んだ。中には笑顔で子供らと手を合わせる選手もいたが、周りに目を向けない選手も多かったと記事は書いている。岡田監督もそうだった。闘莉王選手は耳にイヤホンを当てたままだったそうだ。歌や音楽と小旗で歓迎しようと待っていた多くの人たちは、あっけにとられバスを見送った、と書かれていた。「1分でも2分でも立ち止まって歌を聴いて、写真を撮らせてくれるだけで良かったのに」と地元の人の言葉も書かれていた。






 この記事を読んで書いた下書きのタイトルが「恥を知れ、日本代表はすぐ帰れ」という怒りのタイトルになったというわけだ。




そりゃあ、そうだろう。だって、8年前の日韓大会の時、大分県の小さな村ではカメルーンの選手たちは地元の人と素晴らしい交流をしたではないか。かけがえのない友好の輪は今でも中津江村の人たちの心に深く残っている。日本代表はジョージの人たちに何を与えたか。逆に彼らの心に傷を残しただけではないのか。こんな恥ずかしいことはない。試合に勝つとか負けるとかではない。日本代表の人間としての暖かさがないということが明らかになったのだ。




ということは、日本人とはこのように冷たい人たちなのだな、と、南アフリカのジョージの人たちに見せつけたことなのだ。同じ日本人として私は恥ずかしい。申し訳ない気持ちでいっぱいになる。こんな恥ずかしい人たちは、試合なんかどうでも良いから早く日本に戻れ。という内容を書いたのだ。





 でも、ブログをアップしそこねていたら、14日の月曜日にカメルーン戦に勝っちゃった。







勝っちゃったら勝っちゃたで、なんとなくウジウジして今日に至る。






日本代表は確かに恥ずかしいけど、私も情け無い。勝って、本当に喜んで、深夜なのに奥様と手を取り合い、大声を出し、大喜びしているのだから。「いや~すごい。岡田は偉い! この試合での代表は目つきが違ったよ。本当にすごいな!」と、これこそ手を返した喜びようだもの。コラムの下書きのことなど、どっかに行っちゃった。「恥を知れ、すぐ帰れ」とは言えなくなった。






 一夜明けたら、日本国中の岡田監督や日本代表に対する見方が変わっていた。


 日本中が「手のひらを返した」ようだ。






 新聞やテレビの報道がガラッと変わった。オランダ戦でも惜敗だから、評価が高くなったままデンマーク戦を迎える。もし、こんなことは考えたくもないが、デンマーク戦に負けたら、また手のひらを返すように「日本の恥だ、岡田は腹を切れ」など言い出すのかしら。







これは国民性なのかな。今から65年前、日本が戦争に負けた年。それまで鬼畜米英、と叫んでいたのが、負けて2~3ヶ月でアメリカ兵に「ギブミーチョコレート」などと、手のひらを返して叫ぶ。日本人の特性か。




私は冷静にデンマーク戦を見よう。もし、万が一負けても、奥様に八つ当たりはしないようにしよう。朝なのだからやけ酒は飲まないようにしよう(当たり前だけど)。大声をだして「岡田監督の馬鹿野郎」とは言わないようにしよう。




誓います。



































































首相交代

首相交代



 また、首相交代だ。21世紀の10年間で、森さん・小泉さん・安倍さん・福田さん・麻生さん・鳩山さん・菅さんと7人か。多いね。90年代も8人交代している。名前も覚えられない。何やっているのだろうか、この国は。


 あのローマ帝国も滅亡に向かう3世紀にはころころと皇帝が変わっていった。謀殺が多かったローマと違って平和のうちの権力者交代だから、まだ、ましだけど。


 菅新首相に対する期待で民主党の支持率がすぐ10%以上も上がった。鳩山内閣の副総理がトップになるだけなのに、本当に変化するのかな。




 菅さんへの期待感を表すおかしな論調が新聞にあるのを見つけた。次の3点で菅さんに期待すると。一つは、菅さんは親が政治家ではない。これはこの間の歴代の総理が、圧倒的に親が政治家で2代目・3代目が多かったからね。次に、市民運動家の出身だということ。これも今までの自民党時代からすれば変わった経歴だろう。3点目は、その自民党に一度も加わっていない、ということ。でも、政権与党で、閣僚の経験はある。常に権力から離れていたわけではない。


 世論調査も菅さんに期待するという声が多かった。しかし、所信表明演説もしていないのに、期待するとは、おかしくはないか。「何をやろうとしているか」を聞く前から期待などできないと思うのだが。


 このような、いわゆる『属人』で期待していいのだろうか。属人とは、広辞苑で引けば「その人に属すること、その人の属性」とある。


 でも、政治家への期待は属人ではなく、「何をやろうとしているのか」で考えるべきだろう。政治家への評価は、当然、「何をやったか、あるいは何をやらなかったか」で決めるべきだ。ここ20年間の歴代の首相が2代目だから評価が低いのではない。現代の日本の状況(結果)から見て「何をやって、何をやらなかったから」で低い評価になっている。



 

企業経営者も同じことだ。属人で評価されるのではなく、会社の発展のために、「何をやって、何をやらなかったか」で評価されるべきである。日本の中小企業の場合は親子や親族での事業継承が圧倒的に多い。でも2代目が社長・会長の息子だからで価値が決まるわけではない。「何をやろうとしているのか」で期待され、「何をやって、何をやらなかった」で評価されるのだ。



 会社の中の人事考課の場面でも属人での評価が多く見受けられる。実際は評価表や成果表、面接記録などで評価を行う建前になっているが、考課者の意識の中で、この属人が幅をきかせている。たとえば、あの人は有名大学卒だから、あの人は理工系だから、体育会系だから、そして極めつけは女だから、など。なかには、「あいつは一度会社を辞めようとしたことがあるから」などが評価にいつまでもついて回ったりする。


 私も関与先企業の考課者研修で、くれぐれも注意するようにと指摘するのだが、実は、この属人評価の意識はけっこう根深く、堅いものがある。考課者の意識の中だけでなく、先ほどの新聞の論調や世論調査にあるように、社会の中で深く沈殿している。この属人で人を期待し評価する意識を変えるのは、容易ではない。




 企業経営の場合では経営者のカリスマという究極の属人で成り立っているところが多い。しかし、成功している大企業は早くから属人経営から脱却している。だから、長く企業の命を守っていける。創業者一代の属人であるカリスマ性などに寄りかかっている企業は、規模が大きくても継承に失敗している。


 そういえば、i-phonei-padで飛ぶ鳥を落とす勢いのアップルは大丈夫だろうか。創業者のスティーブン・ジョブスさんの『属人』的経営になっていないだろうか。まあ、私が心配することではないけど。




 さて、日本の状況である。総理大臣の属人で国の将来が明るくなるような事態ではないと思う。膨大な財政赤字、国際競争力の低下、そして少子高齢化の急激な進行。どれをとっても構造的で、親が政治家でない市民運動家出身だから解決が可能だ、などとは、全くもって言えない事態だ。


 





















アユ解禁から『タイプ』の話し

アユ解禁から「タイプ」の話し


 小田急線を相模大野から本厚木に向けて乗っていた。陽光が輝いている窓の遠くには丹沢の山並み。海老名を過ぎて、初夏の日ざしにまぶしく光る相模川が見えてきた。と、何だろう、何で川にたくさんの人が入っているのだろう。あ、そうか、きょうは6月2日。昨日がアユの解禁日だ。アユ釣りの人が川に入って、友釣りの竿を操っているのだ。


 本当に初夏だ。この光、この緑、きらきらとまばゆいほどの水の輝き。気持ちいいだろうな。流れの中で若鮎も光り輝いているのだろうな。


 アユ釣りか。一度も経験がないな。それどころか、釣りの経験さえ数えるほどしかないのです、私は。生まれてから自分で釣りをしたのはたった二回。一回は小学生の頃石神井公園でフナ釣り。二回目は学生の頃、療養で訪れていた八丈島で磯釣り。この二回しか釣りをしたことはない。仕事仲間のK先生に船での海釣りに誘われたことがあったが、残念ながら当日体調を壊して行けなかった。


 釣りを趣味にしていないのに、「のんびり釣りでもしたいな」と思うときがある。そしてすぐに、釣りはしないのにと自分に苦笑いをする。


 でも、釣りを趣味にしている人の話では、「釣りは忙しくて、のんびりしていられないよ」と良く言う。高校の時、渓流釣りが趣味の兄とに出かけたことがある。私はドライブのつもりで付き合ったが、一緒に河原に降りて、驚いた。こっちはのんびり河原で読書でもしようと思っているのに、釣りをしている兄は、忙しく川の中をあちこちと歩き回り、少しもじっとしていない。竿も上げたり下げたり、大変慌ただしい。これは「のんびり」どころではない。


 よく釣りをマーケティングの説明で取り上げるが、釣る魚によって釣る方法が違う。餌も違えば、針や竿も違う。いわゆる相手に合わせるわけだ。


 相手のタイプに合わせてつきあい方を変える、ということだ。


 性格診断や、結婚相談でもタイプ別の相性判断などあるので、今は当たり前になっている。人間関係をタイプ別に見ていくことが。コーチングスキルでもタイプ別の診断が重要なファクターになっている。


 私の率直な疑問。だいたい、タイプ別に人間を見るとき、4つに分けることが多い。4つかその倍数の8とか16。でも、何で4つのタイプなのかな。これが不思議でならない。


 体格別で判断するのはかなり古くからあったらしい。筋肉質型の人は粘着質、やせ形の人はメランコリックなタイプで、太っている人は分裂気質、とかルネッサンス時代のヨーロッパでもはやっていたらしい(あやふやな知識だけど)。心理学での研究も進んでいるし、様々な性格診断法もある。まあ、血液型性格診断は当てにはならないのだろうが、なるほど、と、うなずけるタイプ別診断法もたくさんある。私の研修でもコミュニケーションスキルの研修でエゴグラムを使ったり、部下指導やリーダーシップの研修でコーチングのタイプ分けを使ったりする。


 でも、先ほどの疑問。なぜ4つのタイプに分けるのがはやっているのか。答えは、分かり易いからでないかな。マトリックス的に4つに分けると説明しやすいし、納得しやすい。100のタイプでは覚えきれないし、2つでは分類にならないし、4つか4の倍数が説明しやすいのだろう。


 自分のタイプと相手のタイプを考えて、つきあい方に変化をつけると、よりよい人間関係が築けたり、上司と部下の関係がうまくいくという。たとえば自分が織田信長型のコントローラーのタイプで、部下が徳川家康型のアナライザーのタイプだと、どのように接していけばよりよい関係が築けるか、というように。


 まるで釣りだね。


釣りと同じで相手に合わせて餌や針を変えるわけだ。


こんな書き方をしていると、茂手木はタイプ別の考えを否定していると思われるかもしれないが、そうではない。タイプ別での判断を優先すると、思わぬ落とし穴にはまり込む恐れがありはしないかと考えているのだ。


人間を丸ごとの人間としてみないで、タイプに押しつけてみる癖が生まれないかと危惧するのだ。ある会社でタイプ別に分類されたカードを名札に付けていたところがある。その人を理解する前に、タイプでその人間を理解しようとしちゃうのではないかな。そうすると、人間の本質が見えてこないのではないかな。私は、タイプで見る前にその人間を丸ごと理解する方が優先すると考えるのだ。


全身全霊を傾けて、予断を持たずに、その人間を丸ごと理解する。それが始まりだと思う。


 釣りの話しから発展してしまったが、優秀な管理者やリーダーは部下の人間性を丸ごと理解するところからスタートする。だから部下のすべてから「慕われ、恐れられる」(マキャベリ)マネジメントができるのではないかな。


 何しろ人間は複雑怪奇である。全世界には65億のタイプが存在する。釣りをするようにはうまくいかない。