限界
およそ丸2日をかけた分娩継続はミトの体力を限界に追い込んでいました。ミトの全身からは脂汗が滲み、顔は苦痛で歪んでいました。
「胎児の頭や体、胎盤が子宮の中にあり、それらが子宮の内側から圧迫止血している。今は子宮収縮も良いし出血もそう多くはない。しかしこのままこの状態が続けば、ミトは出血が多量となるか、感染症を起こして死んでしまう」
と判断した均平は、叔父の伊古田純道医師に相談することにしました。
その日の夕方、均平はミトの分娩の詳細な状況を手紙に書き、飛脚に手渡しました。均平は、その足で純道が本橋家に来てくれるようにと往診用の馬も常七に頼んで用意しました。
伊古田純道は現在の埼玉県秩父市で生まれました。23歳のとき、小室元長・元貞親子が開いた「如達堂(にょたつどう)」(*注1)で岡部均平と同時期に蘭方医術を学び、その後江戸へ出て、諸名家のもとで阿蘭陀(おらんだ)医学と和漢の医業を究め、帰郷して故郷で開業しました。医学以外に西洋の歴史や哲学、芸術にも造詣が深かった人物で、均平が最も尊敬する医師の一人でした。
この時如達堂で一緒に学んだ経緯から伊古田純道は均平の母の妹と結婚していました。
*注1 如達堂 :如達堂は江戸後期から明治初期にかけて優れた蘭方(らんぽう)医を輩出した番匠(ばんじょう)村(現埼玉県比企郡ときがわ町)の医家・小室家が作った医学塾です。福井藩出身の医師だった小室家は1725(享保10)年、医師のいなかった番匠村に招かれました。3代目の小室元長は産科術や西洋医学を学んで医学塾「如達堂」を設立しました。
「如達堂産科奥術秘伝巻(おうじゅつひでんのまき)」(1796年)は、元長が産科術の極意を書いた書物であり、難産の際に母親の命を救うための方法などが図解とともに詳細に示されています。元長の教え子には国内で最初に種痘を実施した安藤文澤(ぶんたく)もいます。
門下生の名簿「及門姓名簿(きゅうもんせいめいぼ)」(1849年)には多くの医師の名前のほか、非人道的行為として妊娠中絶を禁止するなど医師の心得が書かれています。当時は生活苦による妊娠中絶が頻繁に行われていました。
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