酷い目にあった人が酷い目にあわせた人に法的な責任追及を行うことは認められており、責任があったら損害賠償責任を負うことも当然でしょう。
ましてや侵略戦争とは資本の利害で国家権力が起こすものであり侵略された側の民衆が違法の人権侵害を資本=法人に負わされたのなら、当該個人が当該法人に損害賠償責任を追及し、また認められる場合があることも当然です。
韓国の大法院が、韓国人原告の新日鉄住金という私企業を被告として損害賠償が認めました(10/30)。これに対して安倍首相は「あり得ない」、河野外相は「毅然とした対応を」とコメント。つまり私人間の民事事件に、国家権力が介入。「お前ら関係ないだろ?」と思います。企業の責任にどうこう口を出すこと自体、極めて不当でおかしいことではないでしょうか。
今回、韓国の大法院は、1965年の日韓請求権協定について「国家とは別個の法人格を有する国民個人の同意なく国民の個人請求権を直接的に消滅させることができると解するのは近代法の原理と相いれない」という指摘もしていますが、法律家のリーガルマインドからはとしてはしっくりくる解釈と思います。
にもかかわらず、一企業である新日鉄住金の損害賠償責任に早々に日本政府が口出し、介入することの意味は、やはり「資本の政府」という国家のあり方が如実に現れたものといわざるをえないでしょう。私たち民衆の利害とは当然一致しません。
誘導されたナショナリズムの文脈・視点ではなく、個人vs国家・資本という階級的文脈・視点から見れば、民衆の責任追及に対し侵略加担企業の損害賠償責任が認められたことは大いに歓迎すべきことでこそあり、排外主義的に捉えるべきではないことでしょう。
韓国の人々、日本の私たちには、殺しあう理由はありません。かつての戦争の時にもありませんでした。ただただ、帝国主義的な利害を有する資本と政府に動機と帝国主義的な利害があっただけで、私たち両国の民衆・国民はまさに「動員」されただけです。
とりわけ、ナショナリズムを煽って。繰り返しますが、植民地支配および侵略戦争に直結した企業による反人道的不法行為の損害賠償責任は、国家(政府)間の政治的かけひき利害に関係なく認められるべきですし、そのことは、韓国の人々と同じく私たち日本の民衆も階級的に喜びを共感し、かつ、異を唱える政府こそ弾劾すべきでしょう。
我々の敵は他国の人々ではなく、資本のための戦争政策をこれまでも推し進め、責任を回避し、さらに、再び戦争政策を推し進めようとしているそれぞれの国の政府です。
韓国大法院判決を歓迎します。日本の民衆は韓国の人々が朴槿恵政権を打倒したように日本の政府を打倒し、インターナショナルな国際連帯の姿勢を鮮明すべきだと思います。