英語が出来ません。それなのに、今回、英語でスピーチを行うということに挑戦しました。結局は、30分から40分の長さでした。内容的には、21世紀の資本主義社会の矛盾や日本での思想弾圧の実態など、そこそこ難しい内容なので、どうしたものか、と思っていました。
しかし、御誘い下さった主催の方から英語でスピーチされてはどうでしょう、とご提案いただき、日本語をその場で翻訳して頂くことの無意味さ・時間的コストをも考え、無謀にも挑戦してみることにしたのです。
そのため、そのことを決めたあとの約1ヶ月は、自分なりに基本毎日、ちょっとづつでも英語の勉強をする、ということを日課にしました。もう一から、という感じで・・・。
・・・結果は? さあ、どうでしょう。まあ、デンマークという英語が第2言語というところだったのも幸いし、ある程度の議論のネタを提供できるようなものとなったのではないかと思います。現地の方のご自宅に招かれての会食に際しても、当然、英語での会話でしたが、「そこそこ」(70%くらいか)聞き取ることも出来、ストレスとはならない程度に英語に親しむことができたと思います。
父は、一時期中国に住んでいたこともあり、中国語はもちろん、英語、ドイツ語には早くから親しんでいたようですし、ラッセル法廷の後にはフランス語をフランス人教師に習い出したり、それより後、ロシア語も自分で勉強するなど語学に強い印象で、「自分にはないなあ」と思っていました。
また、大杉栄も、『ファーブル昆虫記』の翻訳、そしてパリでの殴り込みスピーチなどでも有名で、自ら「10ヶ国語でどもりたい」と言ってのけ、逮捕されるたびに語学を勉強して「一犯一語」なんて嘯いていたようですが、実際、多くの外国語を身につけていたことには、憧れを持っています。
AI時代ということで、優れた翻訳機がどんどん性能をあげており、最先端の人の中には「語学よりもロジックだ」という指摘もあります。つまり言語を学ぶことより内容の論理が大事だ、という指摘で、それも一理あると思います。
しかし、少し勉強して改めて思うのは、その言語(外国語)自体が持つ論理とか癖とか表現など、言語固有の文化・考え方が違うことは、やはりそれを知らないとわからないのではないか、そして、それを知ることは、まさに世界を広げることではないかということです。そして、それ自体は、(大きく言えば)世界に対する愛情を自ら示すことではないかと感じました。
今回も現地で接触した人々から多くの刺激を受けることができました。私があらかじめ覚えていったデンマーク語は、MANGE TAKだけでしたが、それでも、その一言で開かれた部分はありました。
私も、父や大杉栄には叶わないまでも、語学を少しづつ学び続けようと思います。
I will continue my study of foreign languages.
Je continuerai mes études de langues étrangères.