抵抗としての「記憶」 | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 ジョージオーウェルの『1984年』でも、確か「真理省」は、歴史をどんどん書き換えて、「真理」を作成していきます。

 つまり、歴史=記録を捏造することにより、その時代の「真理」を「創造」することができる、という、まさに歴史修正主義的歴史観をになう省庁が存在する、というフィクションですが、21世紀の日本の「財務省」でほぼ実現している、と言ってもいいでしょう。記録は、抹消され、書き換えられ、新しい「真理」が日々、権力者の都合に応じて作られています。

 

 『1984年』の主人公は、自分の記憶とのわずかなズレに気づきます。つまり、そこの本当の真理が存在するわけですが、それは新たな歴史でどんどん「上書き」され、本当の真実=歴史的事実は隠蔽され、消去されます。まるでなかったかのように・・・。

 

 そもそも、日本の戦後は、まずは、戦争責任(とりわけ天皇の戦争責任)を抹消・隠蔽、まさに記録の焼却という閣議決定からスタートしたわけですが(横浜事件然り、記録の省である裁判所でさえ、というか裁判所だからこそ!)、その体質と歴史は、連綿と21世紀まで続いてきていることは皆、今は納得していると思われます。

 

 権力者は、ともかく、歴史的事実で、不都合なものは隠そう、変えよう、ということ。

 

 その意味で、私たちの、大衆の「記憶」というものは極めて重大だ、そのことが再確認されるべきと思います。

 

 私たちは、21世紀に入り、IT化が進み、ますます、忘れやすく、記憶を保持せず、あたかも、その場限りの単細胞生物のような「反応」だけで生きているかのうように、扱われています。

 

   「どうせ、こいつらは、すぐ忘れるぜ」と舐められています。

 

 なので、私たちは、少々しつこいくらい覚えておかないと、と思います。いろんなレベルの記憶がありますけど、昔、弁護士なりたての頃からしばらくは逮捕された人の接見に行くと、大事な人の電話番号は皆、数件覚えていたもの。今は、スマホに任せっきりで、な〜んも覚えていません。「携帯」ごと押収され、大事な連絡先は一網打尽です・・・。

 

 まあ、こんな風に記憶も記録もどんどんスマホやクラウドに「外注化」して、な〜んも覚えていない私たちほど「支配」にとって都合のいいものはないでしょうね。

 

 若い頃の志・・・不条理な世の中を変えてやるという意気込み、安倍政権のその場しのぎの言葉の数々、さっき指摘した記録の隠蔽をする権力・・・これれらも、情報の洪水の中、どんどん忘れさせようとしているのでしょう。

 

 記憶こそ、あらゆる感情の源泉だと思います。怒りも、悲しみも、そして愛も、記憶の積み重ねの中から立ち上がるはず・・・浅い記憶からは浅い愛しか生まれないでしょう。

 

 心に留めましょう。大事なことを。自分自身の心と頭に。スマホに任せずに。