「最先端の人」(=私の中では、高城剛さんとか、ホリエモンとか)たちは、テクノロジーの発展で、プライバシーという概念自体、変容するのではないか、ということを言っています(と思います)。
「バーチャルリアリティの世界が広がるにつれて、プライベートという概念も大きく変わります。一言でいうと、情報はもっとオープンになっていって、プライベートというのは、なにかやましいことがあるのではないか、という意味合いになっていくはずです。」(『日本再興戦略』落合陽一)
プライバシー=なにかやましいこと、となるのではないか、ということです。基本は、オープンで開かれる(顔認証、脳認証)ので、ごく個人的な事象=プライベートとは、その環境下でも、どうしてもオープンにできない、どうしてもインスタやフェイスブックにあげられない、誰にも・開かせない事実=(つまり)やましいこと、ということになりそうだ、ということのようです。
これは技術的・テクノロジーの進化が、概念自体の変容をきたすのではないか、というその意味では、極めて革新的な「予測」だと思います。
私は、今現在もプライバシーをテーマとして訴訟をしていますが、そのプライバシー自体がネガティブな概念、つまりは守るほどの概念ではなくなるのでは?、ということです。
この発想は「面白いなあ」と私は思いました。と、同時に、「そこまでプライバシーを捨てられるほど、マインドセットを今風にする準備はできてないな」と思ってしまいました。
まあ、「俺って古いのか・・・」。もちろん、これらの(私の中での)「最先端の人」の発想自体、ナショナリズムや資本主義的発想に引きずられている部分はあり、包括的に肯定・受容はできないです。「この体制」を転覆させる革命志向は、やましいと位置付けられるのでしょうから、まあ、おめでたい発想ではあると思います。
それでも、全体としてはテクノロジーの発展で、プライバシー概念の捉え方も変わっていく可能性は高いと思います。それは、「猥褻」という概念が変容してきたように。
プライバシー、どこへ行ってしまうんでしょう?やましいこと、いかがわしいこと、つまりは革命的で、反体制的で、卑猥で、イケないことに限局されていく?
さあ、プライバシー、未来への変容にのるか、それとも守っていくか。あたなはどうします?