「左のナショナリスト」というナショナリズム | 御苑のベンゴシ 森川文人のブログ

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 安倍政権、そしてトランプ政権のデタラメぶりは、その体制の危機と共に、とどまることを知りません。やりたい放題、言いたい放題です。私たちのことなどお構いなく・・・。

 

 ところで、本日(12/10)の朝日新聞に「『左のナショナリスト』の憂い」(大野博人編集委員)という大変、朝日らしい(!)コラムが掲載されていました。

 

 フランスのジャンピエール・シュベヌマンという「老政治家」を巡っての話ですが、「民主主義は国民国家の中でしかうまくいかない仕組みだと考える」という前提で「『民主主義国家の礎石となるべき「国民」がずたずた』されたと思うから」憂う、ということのようです・・・。

 

 コラムは「『左のナショナリスト』の憂いはひとごとではないと思う」と締めるのですが、この「左のナショナリスト」という言葉の矛盾というか、強烈な違和感は否めません。

 

 「左のナショナリスト」とは、つまりは、体制内左翼、ということで、戦争が切迫した時に、一気に祖国防衛に結集した「第二インターナショナルの崩壊」的な、「左」風のニセモノのことでしょう。

 「左」という思想は、基本的には、アナーキズムでもコミュニズムでも「国家」という枠組み自体に疑問を呈する、つまり、ナショナリストではない、国境を超えた階級的な繋がり(民衆・労働者の国際連帯)にこそ真髄を見出す思想、だと思います。

 

 この時期に、つまり、朝鮮戦争と憲法9条の改憲とがリアルに切迫する今、このようなコラムを載せる新聞に、新たな「戦前」の訪れを感じます。まあ、朝日新聞は「左のナショナリスト」なんでしょうねえ・・・。

 

 「左派」というのは、国家を超えて、違う国に住む他国民と連帯し、それぞれの国の政府を打倒し、自らの責任で世界(地球)を運営しようという発想です。言葉としての「グローバリズム」は、資本側が国家の枠組みを超えて資本的支配の実現をめざす発想であるとすれば、「インターナショナリズム」が、民衆側の発想であり、これが「左派」でしょう。

 

 つまり、「左のナショナリスト」とは、どこまでいっても国家支配の枠組みの中で、批判と補完という形で体制をヨイショする「ナショナリスト」であり得ても、民衆側の国際連帯という基軸にある「左派」ではない、ということです。

 

 デヴィッドハーヴェイが新刊『資本主義の終焉』で「ところが、こうした左派が権力を取らずに世界を変えようとすることによって、ますます強大化する金権支配的資本家階級は、野放図に世界を支配する能力を誰からも挑戦されることなく維持できるのである」と指摘していますが、まさに、「左のナショナリスト」こそ、絶対に権力を取る責任を回避しながら、居酒屋で同僚同士で上司(政府)の愚痴をぶつけあう賃金奴隷のあり方、そのものではないかと思うのです。

 

 安倍政権を打倒する、トランプ政権を倒す、ということは、代わりに俺たちが責任を持ってやると、ということであり、その責任を取る思想が「左派」の思想であって、ただ、ただ、「よりいい国に」なんて掛け声で、現政権の存続できるよう補っているようでは、ますます、やりたいようにやられるだけです。

 

 本当に歴史を繰り返さないように。責任になんて誰も取るのは嫌でしょうけど、このままだと、政権の選択の尻拭いだけさせられることになってしまいます。

 

 GET UP,STAND UP,STAND UP FOR OUR RIGHT!