このような歴然とした階級的対立をメディアはほとんど報道しません。韓国のゼネストもあたかもパククネ大統領の「崔順実(チェ・スンシル)事態」に切り縮めた問題にしようとしていますが、韓国では1年以上、ゼネスト状況が続いているのです。
一方、フランスでは、今年に入ってからですが、高校生らのデモが発端で120万人とも言われる人が参加し、広場を占拠して映画の上映やコンサートまで開かれ「怒れる若者たち」の「夜、立ち上がれ」という運動が展開されている、ようです。行ってみたいなあ♪
この「夜、立ち上がれ」の理論的なリーダーと呼ばれるのは、あのトマ・ピケティではなく、フレデリック・ロルドンという経済学者だそうです。
「自己充足的な人間は存在しない。人間は本質的に不完全で、存在論的に有限様態で、愚か者なのであるが、愚か者なのであるが、愚か者(imbecile)の語源は、つまり松葉杖をもっていないということである。言い換えるなら、人間は自分で自分を支えることができず、ひとりで立っていることはできないということである。本質的、存在論的な愚か者性(非自律性)、それゆえ必然的にコミュニケーションを広げなくてはならないということ、これがわれわれのいかんともしがたい存在条件なのである。しかし、この条件は不幸なものでも何でもない!反自由主義的想像世界の地平とは、そのことに明晰な自覚を持ち、それを十分に−つまり楽しく−引き受けることである。なぜなら、結局、社会と呼ばれる全般的な交換の体制のなかに必然的にわれわれを引き入れるのはわれわれの有限性そのものだからである。」(『私たちの“感情”と“欲望”は、いかに資本主義に偽造されるか』)と主張しています。
つまり、新自由主義的な「使命達成感」「自己実現」みたいな内在的な喜び「攻撃」から自由になって、我慢の限界にきたのなら、憤激が既成の制度をひっくり返すこともできる、ということです。
なんか、いいですよね。愚か者のまま、楽しく、くだらない「自己実現」なんか気にせず、やってらんないなら、やってらんないと、そして、一人では生きていけないことを当たり前として闘おう、ということだと思います。
彼はピケティについては「ピケティにとって、資本とは金持ちの資産のことなのだ。マルクスにとっては、資本はそれとはまったく別ものである。それは『生産様式』のこと、つまり社会的関係である」とバッサリ。ピケティには革命性がない、ということだと思います。
日本でも、民主党政権時の反原発運動、昨年の安保法制反対運動などの時点で十万人規模の街頭運動をおこなう「実力」は大衆的に持っています。
韓国やフランスの人々と連帯しましょう、民衆レベルで。メディアは、大事なことは伝えません。私たちが、私たちのネットワークで伝え合えばいいのです。
明日は、韓国から日本での連帯集会に参加するために仲間が来日します。入管の妨害が予想されるため成田空港に私は向かいます。
夜、立ち上がれ Nuit debout!、かっこいいですねえ。そういうのやりたいですねえ。やっぱり大衆運動の歴史のある日比谷公園ですかねえ。
とりあえず、11月6日(日)日比谷野外音楽堂で、国際連帯の労働者集会が開かれます。反戦・反労働法制改悪の集会とデモです。
朝鮮侵略戦争に明確に反対する運動がない中、画期的だと思います。これこそが、フランスの「夜、立ち上がれ」、そして、韓国の「パククネ打倒ゼネスト」に応える、日本の私たち99%の「回答」です。午後、立ち上がりましょう!