『何者』という作品(小説・映画 原作者朝井リョウ)は、完全にインターネット環境に囲まれた現在の若者たちの「就活」、つまり企業への就職活動を描いた作品です。
そこでは、SNSによるコミュニケーション、それによる不自然な分断と孤独、個別競争に晒されながら、互いを傷つけ合う若者たちの群像が描かれています。
「エントリーシート」「ウェブテスト」「一分間で自分を表現してください」面接などを経て、自分を企業に「売り込む」わけですが、自分自身を企業に使いやすいパッケージで商品化する努力と、それにどこか反発する気分がないまぜになって、今の世の中のあまりの展望のなさ、を実感できます。
これまた、フレデリック・ロルドンが「・・・かくして、新自由主義はフォーディズムから引き継いだ欲望と感情の体制を修正し、賃金労働者をより強度の高い新しい動員体制のなかに参入させようとする。・・・職務をわがものとすること、割り当てられた仕事を個人として抱え込むこと、その仕事を自らの固有の力を最大限発揮する機会と捉えること、そうした仕事を自らの存在の中心に置くこと、こういったすべてのことが心の底から望むことになり、また望まねばならないことになるのである。
つまり、新自由主義による賃金労働者の動員体制は、諸個人の欲望と資本の主要な欲望に合致させるために再構成しようとするのである。(『私たちの“感情”と“欲望”は、いかに資本主義に偽造されるか』)」と指摘しています。
「自己実現」や「生き甲斐」「達成感」など「ポジティブ」な感情が、すべて資本(企業)に吸収されてしまうような世界・・・。
しかし、『何者』はイマドキの「就活」の映画ですが、別にこの状況は今に始まったことではないでしょう。
かつて、『就職戦線異状なし』(91年)というバブル崩壊の瞬間に公開された就活映画もありました。タイトルがスゴイですが、いずれにせよ、就活(この言葉もなかったけど)局面で悩める若者を描いていたわけで、構造的には変わっていないともいえます。
と、同時に、今のオトナだって、「俺っていったい何者なんだろう?何やってんだろう?」と自問しないでしょうか。いまだに何者にもなりきっていないし、何もやっていないし、つまり生きる感触を掴みきっていないのでは、と思います。
『何者』の登場人物の一人は、何かしらにつけ「そういうのはサムイよね」的なスタンスで、冷めた観察者のポジションにいようとします。これは、別に若者だけではないですよね。なにか突出するようなことをしようとする人は、寒イし、痛イし、そういう人を見ていると引ク、と扱われがちです。
けれども、本当にそうかな、と『何者』は突きつけているような気がします。つまり、本当は、熱くて、痛々しくて、それゆえ豊かに生きたいのでは?今の時代の何かが間違っているのでは?という提起です。それゆえ、生き方を悩み、傷つき、踠いているのでは、ということを・・・。
なので、私としては、オトナから率先して、熱く、痛く、見苦しく生きなくちゃと思う次第です。団結を目指し、連帯を展望し、それゆえに時に無様で暑っ苦しく♪熱い努力を全て資本に搾取されるのではない世界のあり方を模索しながら、です。どうかなあ?