非暴力主義、「暴力は絶対ダメだ」とか言って、民衆側の暴力的「戦術」を一切否定する人たちがいます。
そういう人に限って、国家の暴力には、目をつぶっている・やりすごす・見てみないふりをする・暴力だと気づかない、という対応で、結局は、その暴力を肯定する傾向があると思います。
警察官が、拳銃を帯同し逮捕することは暴力ではないのでしょうか?
裁判所が勾留=留置場等への監禁することは暴力ではないのでしょうか?
死刑は?
はたまた、
軍事力を行使することは?例えば、とんでもないデタラメなトップがミサイル発射、核実験をくりかえす場合(注 アメリカでもソ連でもフランスでもない、最近の話です。)、その主席を殺す行為は?
どこかで、非暴力なんていう人たちは、自分が・直接手を下さない・暴力=国家権力による合法的暴力については、明示/黙示に肯定していると思います。
だから、「自衛戦争」には反対できないし、「過激派」に誰から、どんな暴力が振るわれても何もいわない。つまりは、日和っている、ということだと思います。
しかし、その非暴力主義的な日和見が、ここまで時代を導いてしまったのでは、と思います。私は、徹底的な議論と言いますか、徹底的な言説で世界にアプローチしたいと思っています。が、別に民衆側、つまり私側の暴力を一切否定する立場にはありません。必要な暴力、というものはあると思っています。
みんな違うのかなあ。それは、自分が・やらないってだけで、誰かがやる暴力は黙認しているだけじゃないの?違う?
パッ、パッ、パーっと慣れてるアメリカ軍が中心となって、北朝鮮政府を殲滅するのは暴力ではないのでしょうか?戦争ではないのでしょうか?
別に大きな話でなくてもいいのです。誠実な、言葉通りの、ごまかしのないレベルでの話。
ロックだとか、ボブマリーが好きだとか、言っている人まで、「非暴力」だとか、「過激派はいや」だとか、言っているとホント、がっかりしますね。
ここまで、暴力が、権力に独占されて、我々の暴力が奪われていていいのかな、と思います。「責任」を伴えば、暴力を行使することは本来、私たちの力そのものだと思います。
日和って、その「責任」を負う勇気を持たないからこそ、いざ、本当の戦争となったら口をつむり、警察の暴力を見過ごし、すべてを「合法」の枠で収めようとするのではないでしょうか。
要は、自分で、自分たちで考えること。オリジナルに考えることだと思います。