現実の光景の中に出現するポケモン。それは、「バーチャルな」作り物であると同時に、具体的・現実的な「場所・空間」と結びつき、そこに行かなければならないという「現実」と結びついています。
「こんな子ども騙し、なんで夢中になるかわからない。現実の昆虫取りの方がよほどマシなのに」というのは、確かにそうだけど、多くの子どもたちにとってカブトムシの居場所こそ、アクセスするのは困難で、少し動けば、「そこ」に居るポケモンの方がリアルなのかもしれません。
いや、「リアル」であるか否か、なんて特に重要ではないのかも。現実であろうと、仮想現実であろうと、本人(プレイヤー)にとっての「リアリズム」が、そしてワクワクする気持ちがあればいいのかもしれません。
考えてみれば、リアリズムというのは主観的なことで、逆に唯物的な、誰にとっても客観的な「現実」が各人にリアリズムをもたらすかは必ずしも別のことなのでは、と思います。(http://ameblo.jp/mfb1991/entry-11831987956.html)
自分にとっての「現実」とは? 沖縄の高江で起こっていることはリアルか?国家権力の暴力を現実として捉えているか?それよりも、目の前に現れて見えるポケモンにこそリアリズムを感じるのか?
ナショナリズム・・・「国家」、「国民」、「愛国心」などもどれくらいリアルでしょうか。さらに言えば、「民主主義」、「三権分立」「平和」なども。
今、私が感じるのは、権力や資本は、私たちのリアリズムをコントトールしようとしている、そのリアリズムです。例えば、「死」や「暴力」や「貧困」や「搾取」や「階級」などの現実はリアルに見えないように隠し、一方、「ニッポン」や「私たちの代表」や「公正・中立」や「安全保障」は、「ポケモン」のようにリアルに立ち上げようとしています。
そもそも、世界(地球)のどこまでを自分の現実とみなすか(感じるか)。毎日が必要以上に忙しい私たちには、「自分と家族と職場の人間関係および衣食住がリアルな現実(変な言い方ですが)だ」という人も多いのではないかと思います、そしてそれは世界中きっとそうでしょう。
いつの間にか、高騰している学費(「奨学金」という名の借金)や「フレキシブルな働き方の選択」という非正規雇用の拡大、一方、「タックスヘイブン」を利用する程の(私ではない誰かへの)富の集中などの目の前の「現実」は、目に見えなくてもそこにある放射能と同じように本来、リアルに感じるべきことなのだけど、見えないようにさせられています、「ポケモン」と反対に。
時に、私たちは、目の前の現実を信ぜず(目を背け)、虚構でも首尾一貫性のあるプロパガンダに惹き寄せられてしまうことがあります。互いに正社員・非正規社員などと分断され、仲間というよりは競争相手として孤立させられ、自分自身以外の何者にも頼れない時代・・・全体主義と呼ばれる時代の直前期の特徴とされます。
今、私たちにとってのリアルは何か?「仲間」や「連帯」や「団結」にはリアリズムはないのか?
そんなことないですよね? 世界では、多くの人々がリアルな闘いに立ち上がっています、フランスで、韓国で、そして沖縄で。インターネットが悪いわけではない、その先にある現実につながれるか否かは、私たちの本来持つ「リアル」に対する感受性・想像力次第だと思います。