選挙かあ・・・。参議院選挙、そして都知事選挙。メディアが大好きな「人気投票(今週、一番のニュースが高島礼子の旦那の逮捕だって?)」。印象。雰囲気。イメージ戦略。デマゴーグ。
ワイマール憲法下の1933年頃の民主主義を意識してみる。・・・ところで、そもそも、「代表制」は、「民主主義」とどれくらい「一致」するのか。
「カール・シュミットがいうように議会制は、討論を通じての支配という意味において自由主義的であり、大統領は一般意志(ルソー)を代表するという意味において反民主主義的である。シュミットによれば、独裁形態は自由主義に背反するが民主主義に背反するものではない。《ボルシェビズムとファシズムとは、他のすべての独裁制と同様に、反自由主義的であるが、しかし、必ずしも反民主主義的ではない》。」(『ブリュメールの18日』の柄谷行人の解説)
・・・わりかし民主主義的な代表制、わりかし自由主義的な議会制・・・。では、「代表」による「議会」は?民主主義的であり自由主義的なのか? もしくは、民主主義的でもなく、自由主義的でもないのか?
民意の反映の結果独裁的な全体主義が招かれたことは・・・ある。
民主主義とは民意(俺の意志、君の意志)の反映による統治。代表(つまり、他人による政治)制により民意(俺の意志)は反映されるのか。政党というオプション(選択肢)の提示。そのオプションから漏れる(俺の)民意はあっていいのか?
「主権は譲りわたされない、これと同じ理由によって、主権は代表されえない。主権は本質上、一般意志のなかに存する。しかも、一般意志には決して代表されるものではない。・・・人民は代表者をもつやいなや、もはや自由ではなくなる。もはや人民はいなくなる」(『社会契約論』ルソー)
・・・そっか、昔から「誰も選びたい人(政党)がいない」なんて当たり前だということだね、よかった、よかった♪
「全体主義運動はその議会蔑視にもかかわらず公職選挙に参加し帝国議会に代表を送ったーこの矛盾は外見だけのものに過ぎないがーことによって、民主主義のルールの枠内で次のことを実証することさえできた。すなわち、議会における多数派なぞ見せかけだけに過ぎず、反議会的な運動は人民の多数を代表するところまで迫っており、政党制度の枠内で政党が議会に多数を占めたにしてもそれは決して国の現実を反映などしていない、ということである。」(『全体主義の起原』ハンナ・アーレント)
・・・つまり、選挙で民意なんてわかるわけないぜ!っていう・・・。でも、持ってかれないようにしないとね、「強い言葉」や「イメージ」に。
で、さて、来週の参議院選挙、一つのメルクマールは、改憲阻止にきっぱり立つか、否か、だと思います。
もちろん、天皇制を含む現憲法が最高!のものではないとしても、この政治情勢下において、憲法9条の「改憲を賛成・容認する・どちらともいえない」勢力は、たぶん、「自衛」の名による戦争を肯定するわけでしょうし、国家にどこかまだ信頼しているのでしょう。大きなくくりとして「保守(リベラルを含む)」なのだと思います。
この点、ある意味、正直に、そして明確に、憲法学者が話しています。
「樋口(陽一)「しかし、このような状況でも希望があると感じるのは、日本国憲法の価値を理解する。若い世代がいることです。あの安保法案への若者の抗議集会に私も参加しました。小林(節)先生が学者として最初に彼らSEALDs(シールズ 自由と民主主義のための学生緊急行動)とはじめて手を結んで演説をし、その翌々週に私も国会前に出かけたときのことなのですが・・・。
樋口「あの夜、女子学生がこんなスピーチをしていたのです。『今こうやって私たちが生きている普通の生活。これを壊さないでほしいのです』。壊さないでほしい、つまり今の憲法がつくってきた生活を『保守』したいという宣言でしょう。対照的に思い出すのが、10年ほど前にフリーターの男性が発表した文章です。戦争が起こればみんな平等になる、だから希望は戦争だ、と彼は言った。この青年も格差社会のなかで困窮していたのでしょう。自民党が推し進め、さらに今回の改正草案では『国民』と定めようとしている、新自由主義の犠牲者です。・・・こんな政治状況をつくってしまった私たち大人の責任を感じる一方で、戦後の社会を「保守」しなくてはならない。
小林(節)「『これまでの歩みを守ってほしい』という声は、つまり『保守』の思想ですよね」
・・・反自民、それは、「保守」からの反自民、「反体制」からの反自民。または、「保守」からの改憲派、だけど、自民党草案反対派、もいるわけで・・・。
俺の民意はどこに持っていけばいい?
ともかく、選挙というシステムでは、民意を率直に反映することには限界がある、ということです。
というような、ことを踏まえて、投票はします。入れる人はいます。政党はありません。